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紫がたり 令和源氏物語 第五十九話 葵(二)

 葵(二)

六条御息所の苦しくも悲しい心裡を察し、一人御胸を痛められている御方がおりました。
式部卿宮(しきぶきょうのみや)の姫君です。
式部卿宮は桐壺院の弟君なので、姫は源氏とは従兄妹という間柄になります。
源氏は昔から美しくて聡明であるという噂のこの姫に並々ならぬ関心を抱いておりました。
ふとした時に庭の朝顔の赤紫がなんとも鮮やかで美しかったもので、その花と共に文を贈ったことから、「朝顔の姫君」とお呼びしております。
朝顔の姫君からの返事は、初夏を思わせる爽やかな香が焚き染めてあり、その手跡も歌も聡明という噂に違うことはありませんでした。
源氏が度々に交際を申し込む歌をそれとなく躱しながら、気の利いた言葉の応酬が面白く、長く文通友達のような関係を続けておられます。
それでも季節の節目には源氏が式部卿宮の邸を訪れるので、御簾越しに話などをしたりして、友情とも恋愛感情ともいえない不思議な絆があるのでした。
朝顔の姫君は潔癖で白百合のように凛とした姫でしたが、情緒のわからない女性ではありません。
御簾越しに見える源氏の美しさも魅力も充分に心得て、惹かれる気持ちが己の中にあるのも否定はしませんが、それでも容易に靡くことがないのは、源氏の君を愛することで苦しんでいる数多の女人達を見知っていたからです。
ですから姫は六条御息所が伊勢へ下ろうと考えていることを、源氏を愛するが故の苦悩なのだと察し、お気の毒な貴婦人であると密かに思いやっておられたのでした。

御息所が伊勢下向を思い悩んでいるある時に、源氏の正妻・葵の上が懐妊したという知らせが入りました。
知らせを伝える女房も歯切れが悪く、
「左大臣は大げさに今から安産祈願など仰々しくなさっているそうですよ」
いかにも苦々しく顔をしかめているのが大層聞きづらく、
「源氏の君にとっては喜ばしいことでしょう。そのように悪しく言ってはなりませんよ」
さすが嗜みある貴婦人然と女房達を戒めたものの、御息所の心は悲しみに打ちひしがれておりました。
源氏は御息所の元を訪れては世間話だけではなく悩みなどを吐露していたのですが、正妻との仲がしっくりいかないことなども嘆きの一つでした。
葵の上には申し訳ないことですが、そうして心を許してくれる源氏の様子をまた愛しく思ったものです。
それが懐妊ということになると、源氏の心は正妻の方へ向き、自分は益々疎んじられるであろうと思うだけでも、苦しみは深まるばかりなのでした。

高貴な方々の女人の嘆きは表に出ぬのが世の常でございます。六条の貴婦人が嘆くように、当の正妻 · 葵の上でさえ、体裁とは別に物思うことが多いのです。

この平安の世では子を成すことに特別な縁(えにし)に結ばれた男女とされました。それほどに子種に恵まれることが珍しかったのか。現代人と比べると平安人は寿命も短く、栄養状態も良くはなかったでしょう。それが、通うところも多い源氏という夫。しかも結婚してかなり経ち、兆候もなかったものを突然に授かった子供に、誰あろう葵の上その人こそが思い乱れているのでした。

秘めたる女を胸に棲まわせる夫の心が変わるはずもありません。これまで自尊心を殺していたものを、特別なほだしを得るとは。このまま無視され続けられる存在として生きることの虚しさよ。葵の上は己の運命を呪いました。

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