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令和源氏物語 宇治の恋華 第百八十一話

 第百八十一話 翳ろふ(一)
 
「お姫さま、どちらにいらっしゃるのですか?」
「お返事なさってくださいまし」
山荘は夜も明けぬ前から動転する女房たちの惑う声で不安に揺れておりました。
「私の大切なお姫さまはどこにいらっしゃるのだえ。隠したものが鬼であっても容赦は致しませんよ」
忽然と姿を消した姫君の行方を求めて乳母も半狂乱に騒いでおります。
宇治川へ臨む階(きざはし)へ向かう廊に無造作に脱ぎ捨てられた上衣を見つけた右近の君と侍従の君は青ざめた顔を見合せました。
無言のうちにも姫君が思い悩んだあまりに川へ身を投じたのではあるまいか、という最悪のシナリオが脳裏を過ぎるのです。
「そんな、まさか。ねぇ、右近の君」
「いえ、あるいは・・・」
「もうすぐ宮さまに迎えられるという時にどうして」
「宮さまを選びきれなかったからこそかもしれないわ」
「なんということでしょう」
侍従の君は浮舟の乳姉妹、幼い頃から気持ちはいつでも同じと考えていたものの、何も打ち明けてくれることもなく逝ってしまわれたと思うと悔やまれてなりません。
「侍従の君、こうなっては姫さまの不名誉になるようなことはけして漏らしてはならないわ。宮さまとのことは絶対に秘さなければ」
「わかったわ」
そこへ他の女房たちがやって来て、浮舟君の上衣が脱ぎ捨てられているのを見て悲鳴をあげました。
「これはどうしたことでしょう」
「警護の者も邸に出入りしたものは無いと申しておりましたが」
右近の君は世間にもよくある話と取り繕って言いました。
「浮舟さまは美しい御方ですもの。もしや龍神に魅入られたのでは」
「それは姫さまが龍神に攫われたということでしょうか」
「そうかもしれませんわね」
若い女房などは頷きあいますが、老女房たちはそんな憶測を鼻で笑い飛ばしました。
「鬼やら龍神にかどわかされるなんて作りごとの昔話ですよ。馬鹿らしい」
右近とてそんな作りごとで皆をごまかせるとは考えておりませんでしたが、少しでも匂宮との密事とは別の方向に目を向けさせなければならなかったのです。
「ああ、それにしてもどうしたらよいのでしょう」
一同が悲嘆に暮れるその場にやって来たのは母君・常陸の北の方から再びよこされた使者でした。
「やや、これはいったいどうなさった?」
まだ確実なことはわかっていない為に歯切れよく説明できない右近の君を見て、使者は続けました。
「昨日の北の方さまからの使者はこちらで泊まられているはず。御方さまは明け方にまた胸騒ぎがなさったようで、鶏の鳴く前に私を出発おさせになりました」
「そうでしたの。誰か先の使者殿をこちらに呼んで来てください」
右近は人払いをして侍従の君と二人でその使者と会い、浮舟から母君に渡される筈であった返事を読みました。
そこには後の世にまたお会いできるように、というあの歌がしたためられてあったもので、二人はやはり姫君が覚悟の上で宇治川へ入水したのだと悟りました。
「ああ、なんと可哀そうなお姫さま」
堪りかねて侍従は泣き崩れ、それまで気を張って己を保ってきた右近もとうとう嗚咽を漏らしました。
母君からの追っての手紙にはやはり姫が前に望まれたように、薫君の元へ移るまでのしばしの間、親子水入らずで過ごしましょう、とあったのが今になっては殊更に辛いもの。
「どうして長く従ったこの侍従にも本当の御心を見せてくださらなかったのでしょう。口惜しゅうございますわ」
侍従の嘆きをもっともと聞く右近でありましたが、侍従が匂宮に傾倒していたのを目の当たりにして姫君も人知れず悩まれていたのでしょう。
思えば姫の御心が宮さまにあるとばかり決めてかかったのは至らぬ私たちであったよ、と右近は胸が痛みました。
「母君には姫がお亡くなりになったとだけお伝えしておきましょう。詳しい事情はなるべく申し上げない方がいいわ。いずれお話するかもしれないけれど、それは時期と成り行きを見極めてのうえで」
「そうね、それがいいですわ」
右近と侍従の判断で二人の使者は揃って京の邸へと戻ってゆきました。
 
匂宮は浮舟からの返事を読んで首を傾けました。
まるでどこかへ消えてゆくのだというような歌に漠然とした不安が込み上げてきたのです。
それは浮舟の死の決意の表明なのでしたが、宮は姫を薫と自分と二つ心のある女人と蔑んでいたもので、何処かへ姿を隠してしまうのではないかと怪しみました。
女人の心の綾を解せず、どこまでも傲岸な皇子には浮舟の最期の言葉も届かなんだか。
それがあまりにも悲しいことよ。
せめてもの救いなるは浮舟が宮の疑念を知らずに逝ったことでしょうか。

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