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紫がたり 令和源氏物語 第百二十二話 明石(九)

 明石(九)

源氏が明石に来ていつのまにか一月が経っておりました。
須磨とは違い海風も穏やかで初夏の日差しが降り注ぐ浦は心地よく感じられます。
庭に撫子が咲き始めたのを見ると、遠く離れた我が子を思わずにはいられません。
春宮は健やかにお過ごしだろうか、寂しい思いはされていないだろうか。
きっと一年で大きく成長されたに違いない。

美しい月が昇り、見渡す海が二条邸の池に思われて都が恋しくてなりませんが、目の前に浮かぶ淡路島の影がその思いを閉ざすようです。
源氏は久しぶりに七弦琴を手元に引き寄せました。
爪弾いたのは“広陵(こうりょう)”という秘曲です。
中国は西周時代に誕生した古琴で奏でられた曲ですが、その素朴で切ない調べに郷愁の思いを掻き立てられます。
音色は松風とともに浦一帯に響き渡りました。
妙手の源氏が心のままに奏でる音なので、楽を解さない下々の者でも胸が切なくなり、涙が込み上げてくるようです。
山手の御殿にいる明石の姫にもその響きは届いておりました。
なんとも哀切で深みのある様に耳を傾けずにはいられません。

あまりの妙なる音色に入道はじっとしておられずに、お勤めもそっちのけで源氏の元に伺候しました。
この人は実は琵琶、琴を得意とした楽の名手だったのです。
「素晴らしい御手でございますな。出家した身ですが、このような音色を聞かされては昔宮中にてあったことを思いだされてやって来てしまいました」
入道は楽器を持参して、自らは琵琶法師となり、源氏には筝の琴を差し出しました。
筝の琴は十三弦で現在よく耳にするような華やかな音色です。
源氏が軽く爪弾くとさっと雅な風が吹き抜けていくようでした。
七弦も素晴らしかったものを十三弦でもその楽器に合うようにお弾きになるのはまことに優れた君であります。
入道も負けじと、嫋々と胸に沁み入るような音を奏でられるので、
「こんな名人の前で弾いてしまうとは、私が迂闊でした」
そう源氏は恥ずかしそうに笑いました。
「筝の琴は女性がしんみりとさりげなく弾きこなす音色が心に響きますね」
源氏は一般的な感想を述べたのですが、入道はここぞとばかりに膝をつめてにじり寄ります。
「実は私の娘が素晴らしい弾き手なのです。このような片田舎でどうしてそのような手を身につけたかと思えば天性のものとしか思えません。不思議と名人といわれた延喜帝の御奏法に通ずるところがございます」
「ほう。それは是非聞いてみたいものですね」
「なんの不都合がありましょう。お側に召してご堪能ください」
源氏が興味をそそられると、入道は我が意を得たりとばかりに喜色を浮かべました。
普段慎ましく振る舞い、心清く勤行などに明け暮れる入道でも、娘のことになると欲を剥き出しで一生懸命なのを、これがこの人の現世のほだしとなっているのだな、と君は面白く思われるのでした。

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ラボオシリス①




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