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紫がたり 令和源氏物語 第二話 桐壺(二)

 桐壺(二)

若宮が三歳になられると初めて袴をつけられる御袴着(はかまぎ)の儀が執り行われます。
帝は先の弘徽殿女御腹の一の皇子にもひけをとらないよう盛大な儀式を整えました。もちろん世間の非難は並々ではありませんでしたが、若宮の美しく清らかな御姿に親王、殿上人などはこのご様子ではご寵愛も致し方あるまいと納得するほどの尊さです。

その年の夏、桐壺御息所はふとしたことから病にかかり、そのまま亡き人となってしまいました。
あまりに急なことで、帝は傍から見ても痛々しいほどに嘆かれ、そのご容色が損なわれるまでにおやつれになりました。
「みなに非難されてまであの人を愛したのは、こうして長く添い遂げられぬ宿業があったからだろうか。なんと人の命の儚きことよ」
可憐な御息所の姿を思い浮べると、恋しさでまた涙を浮かべられます。
ただでさえ悲しく打ちひしがれているのに、若宮を見るとまだ三歳になったばかり、母というものを知らぬ哀れさに帝はまたひとしきり涙をお流しになるのでした。

帝は桐壺御息所が遺した若宮を手元で育てたいと思召されましたが、母の喪中の皇子が内裏で暮らすというのは前例のないことです。子供は母方の家で養育されるのが平安時代では当たり前のことでしたので、御息所の母である若宮の祖母が皇子を引き取ることとなりました。
しかし愛娘の突然の死は年老いた身にはよほど辛かったのでしょう。私も一緒に煙になって天に上ってしまいたい、と深い嘆きようです。
この方は早くに夫を亡くし、娘を入内させるという夫の遺言を守って女手一つで頑張ってきた女人です。身分や財力に不安なく華々しく入内される他の女御や更衣達に劣らないように、といつでも娘を思いやり、支度などを整えて母娘二人手を取り合って生きてきたのです。
そんな娘が思わぬ深い寵愛を受け、さらに美しい皇子まで恵まれて、これほど嬉しいことはありませんでした。これから娘は幸せになると確信した矢先にこのようなことになるとは誰が想像したでしょう。

亡くなる直前に宿下がりをした娘は大層痩せて、息も苦しそうでした。
思えば高望みをして分不相応に入内などさせたから娘は苦労をして命を削ってしまったのか、と悔やまれてなりません。
しかし、哀しげな母の顔色を読んだのでしょうか。
桐壺御息所は苦しい息の下から、とぎれとぎれに言いました。
「わたくしは主上(おかみ=帝)に愛されて幸せでございました」
微笑んだその顔は菩薩を思わせるほどの慈愛に満ちたものでした。
そしてゆっくりと瞳を閉じると、その瞳は二度と開くことはありませんでした。

祖母にとって孫である美しい若宮の存在は心の支えにはなりましたが、娘を失った悲しみを埋める代わりにはなりませんでした。
嘆き暮らしているうちに心持ちも暗く沈みがちになり、この祖母も若宮が六歳の時にとうとう儚く身罷ってしまいました。
賢い若宮は優しかった祖母との永遠の別れを悟り、
「私は独りになってしまいました」
と大きな涙をこぼして悲しみに沈みました。
若宮のお世話を申し上げる乳母や女房達はこの身内とは縁の薄い幼子が不憫で、ひとしおに心をこめてお仕えし、力を合わせて家を守っていこうと誓い合ったのです。

そんなある日、父帝がひっそりと若宮の元を訪れました。
久方ぶりに見る若宮はますます愛らしく、同じ年頃の幼子と引き比べてもやはり優れた様子です。
帝が邸を見渡せば、男手の少ない邸は破れてあちこち綻んでおります。
「なんとした破れぶりか。このような場所に若宮を置いていては鬼神にでも魅入られかねぬ。そのようなことになっては御息所に顔向けもできまい。宮よ、そなたは独りではない。この父がついておるぞ」
父君の優しい言葉にはたはたとこぼれる若宮の涙をそっと拭うと、帝はそのまま若宮を内裏へと連れ帰られました。
そうして若宮は父帝の手元で暮らすこととなったのです。

帝は若宮を可愛がり、片時も側から離そうとなさいません。
政務の合間に若宮の様子を伺うとそのまま女御たちの御簾の内にもご一緒に入られたりします。嘆き悲しみ沈まれた帝が以前のように快活に笑われるようになったのを、臣下の者たちも若宮のおかげ、と安堵しております。
若宮の佇む姿は愛らしさとともに美しく、時に寂しげに憂いを含む瞳を見ると桐壺御息所に残酷なことをした女御や更衣達、弘徽殿女御さえもこの皇子を憎むことができませんでした。

平安時代では高貴な女性は夫以外の男性に顔を見られるのははしたないこと、とされておりましたので、常に御簾という簾越しでの対面や、几帳という移動するカーテンの間仕切りのような調度で姿を隠し、顔を晒さぬよう扇で覆っていたのです。
若宮は子供ゆえに父の妻である女人たちの御簾の内に気軽に入ることを許されておりました。帝はくだけた親しみのあるチャーミングな御人柄でいらしたようです。

さて、若宮が七歳になった頃、そろそろ手習いをと読書の儀を整え学問を始めさせると、若宮の聡明なことに父帝やまわりの者達は驚きました。
漢文は言うに及ばず、笛、琴などの楽の才能、絵も上手にお描きになる。
すでに次の春宮(=皇太子)は弘徽殿女御腹の一の皇子と決まっておりましたが、この才能溢れる宮を春宮にお立てになりたいと帝が思し召すのは無理からぬほどの神童ぶりです。
しかし後ろ盾もない宮ではまわりも納得するはずもなく、どのように導いてやるべきか、と帝は他の父親と同じように考えあぐねておられました。


そんな時に高麗の優れた人相見がこの国を訪れていることを知った帝は、若宮の素性を隠して密かに引き合わせることにしました。
高麗人は、
「なんとこの御方は若宮であらせられますな。宮は天子に昇る相があるものの、そうなれば国が乱れ、民が苦しむこととなりましょう。国家の柱石となればまた別のようにも思われまする」
と見立てました。
さらに尊い宮に出会えた感激を漢詩で詠むと、若宮もそれに応えた漢詩を即座にお作りになったので、たいそう驚嘆し、
「光る君かな・・・」
とその場に膝を折り、恭しくひれ伏しました。

この高麗人との対面は内密なものでしたが、どこからともなく噂は流れ、いつしか若宮は“光る君”と呼ばれるようになったのです。

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