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令和源氏物語 宇治の恋華 第百七十二話

第百七十二話 浮舟(三十六)

薫はといいますと、例のあの消息に機転を利かせてとぼけた浮舟を憎くもなかなかの才覚ではないか、と惜しくも思われるのです。
 
浮舟が匂宮を本当に愛しているのであれば、自分の存在というのは無粋以外の何者でもない。
愛する者同士を裂くことは却って深い罪を蒙るのではあるまいか。
 
一度は不快ゆえにこのままそ知らぬ顔をして宮へ譲ってしまおうかとも考えましたが、冷静になって浮舟の行く末を慮るとどうあっても幸せな未来は望めぬように思われるのです。
宮は所詮皇子というご身分で、情けをかけた女人たちの身の振りや後々のことをお考えになるような気性ではありません。
もしも帝に上られるようなことにでもなれば浮舟は女御として内裏へ上がることもありましょうが、二の宮である式部卿宮は健在ですし、宮の素行が問題視されているもので、まだまだそうした機運はないのです。
かねてより匂宮は気に入った女人があると姉である女一の宮の元へ女房として奉っていたことが幾度かあり、内裏での逢瀬を楽しんでいられるようですが、もしも浮舟がそのように扱われ、女房として女一の宮に仕えることになれば不憫でしょう。
また参内するたびに浮舟がそうした憂き目に遭っていると心から離れぬでは薫とて後味の悪い思いをするに違いありません。
そもそも浮舟は正妻のようには扱えぬ身分ではありますし、これまで同様宇治に据え置いて隠し女とするのが妥当であるか。
何より薫の心裡にあるわだかまりはそうそう解けることはないでしょう。
宮の物となった女を以前と同じように愛せるものか。
努めて平静を装おうとも潔癖な君は嫌悪を滲ませてしまうに違いないのです。
大君とよく似ているだけに浮舟を拒絶しそうで、そうなればせっかく迎えても酷なことになりかねません。
 
何も知らずに迎えておられればこのような物思いも無かったであろうか。
 
こちらも鬱々と思案しながらに浮舟を京へ迎えると約束した日が近づいております。
浮舟の母君である常陸の北の方は娘の出京をいたく喜んでいたのを考えると今更迎えぬではどうした事情かと勘繰るでしょう。
あの母君が娘の不義を知ったならばと考えるのも気の毒であります。
どの道これ以上宮に好きなようにさせては天下の右大将の名もたいしたものではない、と半ば意地を張るのはやはり恨みゆえか。
薫は内舎人(うどねり)という宇治の荘園を仕切っている者を呼び出すと山荘の警備を強化するよう命じたのでした。
 
 
「本日からは私がじきじきにお邸に詰めまする」
野太い声に粗野な風貌の貫録のある内舎人(うどねり)を前にして、右近の君はその荒々しさに怯えました。
京で生まれ育った右近にはこのように田舎に鍛えられた武人というものは馴染みがないのです。
その低く響く声に、山賊と変わらぬようないかつい風貌、力を以てねじ伏せることも厭わない印象は貴族を見慣れた右近には恐ろしく感じました。
「近頃このお邸に誰とも知らぬ輩が女房に通っているというお叱りを我が薫君から受けましてな。この内舎人の沽券にかけてそのような噂がまかり通っては承服できませぬと参上した次第でございます」
言葉遣いはそれなりに気を遣っているようであるものの、まるであの闇夜にあっても獲物を逃さぬ猛禽類を思わせるほどに鋭い視線に右近は秘密を隠し遂せるかと鼓動が早まるのを抑えられません。
「それはありがたいお心遣いでございますわ」
そう表面上は取り繕って浮舟君の元へと急ぎました。
「姫さま、なんとも恐ろしく、厄介な男が参りましたわ」
胡乱な瞳を向ける浮舟君に右近は懸念を吐露しました。
「内舎人なる称号は得ておりますが、あの男は山賊のような輩です。もしも宮さまが先日のように粗末な形で身分を隠してこちらに来られるようなことがあれば、躊躇なく切り捨てられてしまうに違いありません」
「右近の君、なんと恐ろしいことを言うのです」
侍従の君はすぐさま反論しましたが、ふと内舎人を垣間見て、只ならぬ貫録に、そうしたこともあるかもしれぬと身を竦めました。
「なんと恐ろしげな男でしょう」
「あの内舎人という男はこの辺りでもっとも力のある人なのです。親族・係累もすべて従えているので、あの男に逆らえるものなどないのですよ。薫君はどうあっても姫さまを宮さまに譲られる気はないようですわね」
あの秘密を糾弾する文をよこしてからは薫の便りはありません。
その沈黙が浮舟にとっては何よりも恐ろしい。
こうして強い態度をとられたのは自分への愛ゆえか、それとも宮との意地の張り合いか。
もしもこのまま薫君に迎えられても以前のように愛してくれるとは到底思えない浮舟なのです。
事情を知らぬ乳母は薫君の配慮を諸手を挙げて喜んでおります。
「頼もしい御方をよこしてくださって、薫さまは本当によくお気づきになる方ですわねぇ。この辺りは盗人が跋扈する闇深い里ですもの。これまでどれほど心細かったことか。これで安心して眠れるというものですわ」
乳母は京へ移ることが嬉しくてならず、新しく美しい女童などを大勢雇い入れております。
「姫さま、これまでの辛苦の人生が報われる時ですわ。ようございましたねぇ」
そうして嬉し涙を浮かべる乳母を横目に、そうであったならばどれほどよかろうか、と胸が苦しくなるのです。
望んで匂宮と結ばれたわけではありませんでしたが、どちらとも選べぬほどに心奪われた罪を今大きく感じております。
秘密が露見したとも知らぬ匂宮からは、変わらずに逢いたいと熱列な文が寄せられて、それも煩わしく項垂れる浮舟なのでした。

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