令和源氏物語 宇治の恋華 第百七十三話
第百七十三話 浮舟(三十八)
君に逢はむその日をいつと松の木の
苔の乱れて物をこそ思へ
(あなたに逢いたいという思いが募り、その日を待ちわびておりますが、松の下に生える苔が乱れるようにせつなくあなたを想うのです<新勅撰集>)
古歌になぞらえて恋心を訴える匂宮のお手紙はやはり優雅で焚き染められた香に共に過ごした甘い夜を思い出さずにはいられない浮舟なのです。
しかしながらどうして宮に色よい返事など与えられようか。
手紙もあまり来なくなり、なかなか匂宮に迎えられると承諾しない浮舟の態度にやきもきする宮は三月の二十日過ぎに再び手紙をしたためました。
それは三月の二十八日に乳母が下向し邸を用意できるので、その日に必ず迎えを差し向けるという旨の物です。
そこにはどのような苦難を越えても必ず浮舟を迎える、という宮の決意が記されていて、周りに気取られぬようにと促してありました。
もしもあの乱暴そうな内舎人が宮さまを手に掛けるようなことがあってはならない。
浮舟はそれが心配で無茶をしようとする宮の身の上を案じ、もはや生きてはお逢いできないのだと思うと手紙を抱きしめて嗚咽を漏らしました。
そんな姫君が気の毒で、さすがの右近の君も姫の御心に従おうと励ますのです。
「姫さま、匂宮さまを想われているのですね。近頃の邸のものものしさや頻繁な使者のお越しで姫さまが他の殿方と通じているのでは、と勘の良い女房たちは噂し合っておりますわ。相手がまさか宮さまであるとは気付かれておりませんが、こうした隠し事はいずれ露見するでしょう。右近はどこまでも姫さまのお味方として、必ずや知恵を絞って宮さまの元へ行かせてさしあげます」
他の女房たちにまで自分の不名誉が吹聴されているとあって浮舟は慄きました。
「ああ、わたくしはなんと恥ずかしい宿業をこの身に背負って生まれてきたのでしょう」
「この上は宮さまとしっかり御心に決められませ。どのような選択にせよ、己を偽らず真の愛を貫く方が後悔は無いでしょう」
「わたくしは宮さまと決めたわけではないのよ。ただ宮さまはわたくしを迎えると定めているのでどのような行動を起こされるかが心配なのです。尊い御身に取り返しのつかないことが起きればわたくしの罪はさらに深くなるに違いありません」
「姫さまは薫さまの元へ行かれる御心ですか?」
「右近、君を裏切ったわたくしがのうのうと迎えられて幸せになれると思って?薫さまはけしてわたくしをお許しにはならないでしょう」
右近はその苦悩に満ちた姫の横顔に揺れ動きながら薫を想う心を見ました。しかしながら薫君に軽蔑されながら暮らすのも不憫というもの。
「それではやはり宮さまの元へ行くと決断なさってくださいまし」
浮舟君がどちらとも意志を表さずそれきり泣き伏せてしまったもので、右近も姫君の胸中を慮り、仕方なきことと口を噤みました。
世の人々は匂宮を誰からも愛される天賦の才を授かった帝にも上る眩しい貴人と憧れ、薫右大将こそそれに並び立って輝く明晰で秀麗な貴公子であると褒めそやします。
その二人の殿方に愛されるとは最高に幸せであると数多の女人は言うでしょう。
果たしてそれこそ最大の不幸とも思われる、と右近は我が君を哀しく見つめるのでした。