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紫がたり 令和源氏物語 第二百四十三話 常夏(三)

 常夏(三)
 
「思わぬ昔話をしてしまったね」
しんみりとした空気を拭い去るように源氏は軽快な曲を奏でると、和琴を玉鬘姫の方へと押しやりました。
「あなたもお弾きなさいよ。聞いてみたい」
「わたくしなどお耳汚しなだけですわ」
玉鬘は源氏の妙手を前にして自信がありません。
筑紫の田舎にあった時、京の皇族の血を引くという老婆からほんの少しばかり教わっただけなのです。
「そう恥ずかしがっては上達もするまい。お父上ほどではないにしても私が手ほどきしよう」
困った玉鬘は源氏の気を逸らすように聞きました。
「紫の上さまも和琴を弾かれるのですか?」
「ああ、あの人は琴ならば何でも弾きこなす才能豊かな人でね。しかし筝の琴をこのうえなく華やかに弾きこなす妙手だ。そして女樂を語るうえで挙げずにいられないのは明石だろう。彼女の琵琶の音色は天性の響きだね」
「まぁ、琵琶を弾かれるのですか」
「うむ。その姿も高貴ながら、水がたゆたうような深い音を奏でるのだよ」
「わたくしも上手くなりたいですわ。どうかもう少しお聞かせください。どのようにしてこんな美しい音が奏でられるのか不思議なのですもの」
今しばらく源氏の和琴を耳に残して技を盗みたいと思うばかりに玉鬘は源氏の側へとにじり寄ります。
「あなたは普段言い寄っても靡かぬものを琴があれば寄ってくるのだね」
そう源氏は艶やかな笑みを浮かべられる。
この日は女房たちが近くに侍っているのでそれ以上のことは口にしませんが、玉鬘はまた辛きことをと琴の音だけを熱心に聴こうとするのでした。
 
 
近頃源氏の心の闇は一段と深くなったようです。
この姫のことばかりが頭に浮かんで、知らず足がこちらに向いてしまうのです。
そう頻繁に訪れてはさすがにまわりも怪しむと控える日もありますが、琴を手ほどくという名目でしばらくは通えそうだ、などとけしからぬことばかりを考えているのでした。
玉鬘を妻とすれば世間からの嘲笑と大臣に見合わぬ軽々しさを揶揄され、姫にも気の毒なことになると心得ておりますが、理性と恋心は相反しているのです。
邪な心はいっそ玉鬘に婿を迎えてその後に言い寄ろうか、などと不届きな考えまでも起こさせるのです。
玉鬘が無垢であるからこそ手折ることもできませんが、殿方を知り、人妻となればこの六条院で人知れず我が物とすることも出来るのではないかと下衆なことを思い浮かべるのです。
なんとも厄介な中年の恋に身動きがとれず、みっともなく煩悶する源氏の姿がそこにあるのでした。
 
春の御殿の紫の上はかすかに聞こえてくる源氏の琴に耳を傾けました。そこに滲む深い苦悩が長年連れ添ってきた紫の上には察せられます。
殿はこの月の無い夜のような闇を彷徨っておられるに違いない、せめてその甘い苦しみに身を焦がされるがよいのだわ、そう紫の上はまるで他人事のような感慨で深い溜息をつきました。

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