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紫がたり 令和源氏物語 第三百六十九話 若菜・下(三十五)

 若菜・下(三十五)
 
試楽は格調高い仕上がりで幕を閉じ、これならば朱雀院も喜ばれると源氏は大きく頷きました。
宴の席を設けると、やはり柏木の働きが大きいものと、一番最初に近くへ呼び寄せ盃を取らせます。
「素晴らしい出来であったよ。夕霧は有能だが雅な点ではやはりあなたが優れている。今日は本当にご苦労だった」
源氏から直々に酒を注がれて、感極まる柏木です。
「院のお役に立てたとあらばこれ以上の喜びはありません」
「夕霧、お前もよくやった」
夕霧と柏木は目を見合わせると笑んで、源氏からの盃を一気に干しました。
柏木は源氏が以前のように接してくれるのを女三の宮の不義が世に漏れ出ることを危惧するからであろう、宮の名誉を慮っておられるのかと思うにつけてもその器が大きく感じられ、赦していただけるという希望も湧いてくるのでした。
源氏はと言えばここで柏木を冷遇するのも傍目で何かあったように勘ぐられ辛いこと、と平静を保っておりますが、実際にその働きには言葉通り満足しておりました。
心からの労いの言葉をかけたのですが、しかしやはり心境は複雑なのです。
かつての自分の罪を思い返しながら、それでも心裡では柏木を詰らずにはいられません。
藤壺の女院との秘めたる恋は源氏にとって一世一代の、来世までへも続くものでありました。それによってこの命が尽きても、地獄の炎に焼かれてもよいと心を決めて身を投じたのですが、そのような覚悟がお前にはあるのか、と柏木に問いたいのです。
死ねるものならば恋の為に死んでみよ、そう源氏の心は荒立つのです。
その気持ちがついつい端々に表れては柏木に無理に酒を強いてしまうところがなんとも大人げない君でありましょうか。
 
夜も更けて、みな和気あいあいと久々の宴に心地よく酔うている頃、式部卿宮さまは御孫が皇じょうという舞を立派に舞いきったのをその成長を喜んで感涙されて顔を赤くしておられました。
源氏は宮も年をとられ涙もろくなったなぁ、などと感慨もひとしおで自らも孫の成長に目を潤ませますが、己も同じ年寄りであると思われると何故だか柏木の若さが妬ましくなりました。
女三の宮を盗まれたのも、私をこうしたみっともない年寄りと見下した故であろうか、と。
「おお、柏木が私を見て笑っているな。なに孫のことで涙を浮かべるのを年寄り臭いと思っているのだろうが、時は逆さまには流れぬのだからねぇ。若さに驕っていられるのもほんの一瞬なのだよ」
源氏の冗談めかした言葉に一同はどっと笑いましたが、柏木は目立たぬよう控えていたのを突然名指しされて面喰ってしまいました。
「そのようなことは致しません。院も御冗談ばかりおっしゃる」
はたと合った源氏のその目は笑ってはいませんでした。
ぞくりとするほどの冷徹な眼差し。
先程まではほんの希望が垣間見られただけに、打って変った落胆。
院は私をけして赦されることはない、そう感じた柏木は背筋がひたひたと冷たくなるのを禁じ得ませんでした。

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