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令和源氏物語 宇治の恋華 第六十六話

 第六十六話 恋車(二十八)
 
八月の二十八日は彼岸明けの吉日でしたので、薫はこの日に訪れる旨を宇治へ知らせました。
先に知らせてある通り、流れで行けば中君を娶るその日であろうと大君には察せられるわけです。
大君は嬉しく思うものの、薫君の苦悩を知ってからは今更ながらに君を愛おしく慕うようになっており、自身の心に翻弄されているのでした。
そうかといって自分がその真実を知ったことを君に伝えてはならないのです。
こうしたジレンマが恋心を掻き立てるというのは俗にもよく聞こえてくる話で、大君が如何にして思慕の情から逃れようともがいても詮無きことなのです。
君の訪れを姉妹はそれぞれに隔たった思いで捉えておりました。
姉は薫君が妹を娶るつもりでお越しになるのを妹には知らせず自然に任せようという心持ちで、妹はもしや将来の夫になるのかもしれぬ人、という淡く密かな想いをこめて。
まさか忍んでくる者があろうとは、しかもそれが思ってもみない匂宮だとこの麗しい妹姫には考えつかぬのです。
薫は敵を欺くにはまず味方から、とも言わんばかりに弁の御許に胸の裡を明かしはしませんでした。
ただ中君の寝所に近づき扇を鳴らしたその時に案内せよ、という秘めやかな合図を示し合わせたばかりです。
宇治の山荘へ着き、若い女房などに出迎えられた薫はまずは大君にご挨拶差し上げたいと伝えました。
大君は千々に裂かれる心を抑えて、律儀な君なれば暗に心変わりの詫びをのべようとするのか、とその対面に応じることにしました。
大君は錠をかけた襖障子越しに己の顔を見られまいと座を据えました。
薫君への恋情を知った今、妹と契りを交わそうとするこの人にどのような顔を見せればよいのやら、また、自身の顔を見られてその心の底を見透かされては立つ瀬も無いという乙女心か。
薫はすでにお連れした匂宮が無事に中君と逢う時間を稼がねばならぬという考えがあり、共に本心を見せぬように、と障子を隔ててまるで初めて会った人のように固い言葉の応酬を繰り返すのです。
そんな不毛なやりとりを続けているうちに薫は大君が纏う鎧とも言うべく言葉の数々に自分も変わらぬ意地っ張りであるよ、とやるせない溜息をつきました。
「あなたにお詫びしなければなりません。心からの言葉を聞いていただきたいのです。どうかお顔を見せてください」
その言葉があまりにも切羽詰っているように聞こえたもので、大君は掛け金を外してそっとほんの隙間ほどの障子を開きました。
「私は中君を娶る心などはなからありませんでした」
「どういうことですの?」
「匂宮は私の数少ない友なのですよ。その友を裏切ることなどできない。それが愛するあなたの願いであってもです。あなたが私を想うてくださらないのはよくわかりましたが、せめて友の想いはとげさせたいと謀りました」
「なんということ」
大君はこの時中君の元へ匂宮が忍んでいることを知ったのです。
「もう取り返しのつかないことですよ。いくらでも責めは負う気で決意したことです。あなたに愚かと思われようとも私は心を変えることは出来ませんでした」
そう悲しそうに笑んだ薫君の顔は苦渋に満ちて、切なく大君を苦しめました。
「私の顔など見たくもないでしょう。去ぬる覚悟はできております」
薫はふわりと座を立ち、踵を返しました。
その潔さにもう二度と振り返らぬという意志さえ感じられるものです。
大君は自ら禁を破ったように障子を大きく開きました。
「薫さま、どうして・・・」
行ってしまうのですか、という言葉はかろうじて呑み込みました。
差し込む月明かりに大君の涙がきらきらと光ります。
薫はたまらずに膝をついて許しを乞いました。
「私は人を愛してはならなかったのです。身の程知らずなことでした」
その時に大君は薫が心を固く閉ざしたのを知ったのです。
そしてそうさせたのは自身であることも。
「匂宮はあなたが考えられるよりもずっと純粋で善良な御方です。中君さまを見捨てられることはけしてありますまい。私もこの縁を結んだ責を担い、命ある限り中君さまを見守る所存でございます。」
大君はその言葉を苦しく聞きました。
あなたを愛しています、という言葉を素直に伝えられればどれほど救われることでしょうか。
しかしこの姫にはその一言も言いだすことはできないのです。
「人を愛してはならぬ人など、おりましょうか」
ようやくしぼりだしたその言葉に薫はまた捨て去ろうとした恋心が疼くのを覚えました。
「あなたはお優しい。そして残酷な御方だ」
薫の顔は苦しみで歪み、笑いながら泣いているようでした。

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