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令和源氏物語 宇治の恋華 第百九十四話

 第百九十四話 翳ろふ(十四)
 
常陸の守の北の方は死穢に触れたので、お産を迎える末娘の為にも邸には戻らずに例の三条の粗末な邸にて身を慎んでおりました。
その胸の裡に木霊するのは亡き愛する娘のことばかり。
本当ならばこの手で抱いて黄泉へ送り出してやりたかったものが、まさか不義を働いて人さまに顔向けできぬ者に成り下がっていたとは。どのような罪咎を負おうとも北の方には愛しい娘には変わりなく、ただ姫を追い詰めたのは匂宮であるとばかりに憎く思われるのです。
匂宮は確かに見映えよく、言い寄られれば抗することはできぬであろう。
特に世慣れぬ姫のような娘なれば好いように囁かれれば夢を見たかもしれぬ、と母君は情けなく思うのです。
そうかといって世間の風にも当てずにかしずいてきた姫にどうして殿方の狡猾さを説けばよかったというのであろう。
あの立派な薫君だけを信じて預けておれば安心と油断したのが甘かった、と北の方は薫君さえも恨まずにはいられないのです。
そんな時に内々に薫君からの使者が三条の邸を訪れました。
使者は大蔵の大夫・仲信という利発そうな若者です。
薫右大将の元には従者と言えどこれほど気の利いた者が仕えるとはやはり格が違う、と北の方には思われて、こうした上流での権門の夫人になるはずであった愛娘が哀れに思われるのです。
「使者の御方、どうぞむさくるしい邸ではありますが中にお入りください」
「はは、では遠慮なく。我が君は今でも浮舟さまを毎日想われているのですよ」
そうして渡された手紙には北の方を気遣う薫君の言葉が隅々まで綴られてありました。
 
消息を差し上げるのが遅くなりまして申し訳ありません。
私自身姫君の死を信じ切れずに闇に惑うような心地でおりましたもので、母君への配慮が至らなかったことをお詫びいたします。
何をおいても第一にお悔やみを申し上げるのは御身であったのを、子を亡くされた悲しみはどのように言葉を尽くそうとも埋められるものではありません。
私も未だ悲しみも晴れずこのまま嘆き死にでもするのではないかと思われますが、もしも私が生き永らえますならばどうか浮舟君の形見と思召して然るべき用事の折にはお便り下さると大変嬉しゅうございます。
 
さらに仲信を通じて浮舟君の兄弟の後ろ盾になろうと口上があったのが北の方にはもったいなく思われて、姫の結んだ縁が一族を導いてくれることに有難くも、そこに姫が居ないのが惜しくも感じられて、仲信の前でみっともなく泣き崩れてしまいました。
「仲信さま、子を喪った哀れな母と、どうかお許しくださいまし」
「御身の悲しみは我が殿とて同じでございます。ふとした折に涙ぐまれる御姿はこちらも胸を締め付けられるほどですよ」
「薫さまにそこまで想われて娘は幸せでございます」
北の方は薫君が匂宮とのことを承知していると右近から聞き、君への申し訳なさでこちらからは便りも出来ぬと諦めていたものが思わぬ君の配慮に懐の広さを感じて感謝の念で満たされました。
 
薫さま
このように悲しい娘の死にあっても、永らえている自分の命を情けないと感じておりましたが、それも忝くも有難い御身の言葉を戴くためであったと思われれば救われます。
我が子のことまでも御心に掛けていただいたことが嬉しく、如何にもそうしていただけるのであれば、喜んで奉仕させていただきとうございます。
 
北の方からの返事を読んだ薫は仲信の話を聞きながら、少しでも母君の御心が慰められれば浮舟の御霊も救われるであろうか、と頷きました。
「北の方さまからこちらをお預かりいたしました。浮舟君の形見とおっしゃっておりましたが」
そう言って仲信は袋から立派な班犀の帯と見事な太刀を取り出しました。
「これは」
「殿へ差し上げる為に母君がご用意されたのでしょう」
「今となっては来るべき浮舟がおらず贈り物ばかりが残るというのもわびしいではないか」
そう言って薫はまた涙を流したのでした。

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