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紫がたり 令和源氏物語 第四百三十二話 幻(一)

 幻(一)
 
季節は巡り、新しい年を迎えても、世間では喪に服するよう祝い事も控えられております。
それは紫の上を喪った源氏と明石の中宮を慮ってのことですが、源氏があの秋以来公に姿を見せないことから、京はまるで光を失ったように暗く沈んでいるもので、どうにも新年を祝う気分にもなれぬ、というのが本当のところでしょうか。
明石の中宮の衣は薄い喪色に変わりましたが、その哀しみが癒えるはずはありません。
長い歳月慈しんでくれた御方とはもう二度と会うことが出来ないのですから。
それはもうただただ悲しいことでした。
紫の上は母として惜しみなく愛情を注いでくれた慈愛に満ちた人でしたが、女人としてもこの上なく敬うべき尊い御方でした。
まずは人を慮ること。夫をたてて、世の噂に上るような軽々しさはなく、一時の感情で安寧を乱すことはない。
中宮の女人としての規範はすべて上から受け継がれたと言っても過言ではありません。
 
これからは一人で生きてゆかねばならないのね。
もうわたくしを温かく見守ってくださる母上は天に昇ってしまわれた。
 
そのように思うだけでも心細く、再び涙が溢れてくるのです。
それにしても母の最期を看取ってあげることができてよかった、と有難く、それが御仏の慈悲のようにも思われて、自然と手を合わせる姿は亡き紫の上とそっくりです。
紫の上がいつも大事に袂に忍ばせていた亡き祖母の数珠は今中宮の手元にあります。その透き通った世界そのままに愛娘へと伝えられました。

願わくばこの世の縁をもってして、次の世でもあの御方の娘として生まれたい。
そのためにも母上が与えてくれたすべてを信じて徳を積んでゆこう、そのように御心を固められた中宮は落ち着かれた風情につややかさを増して光り輝くようでした。
中宮という立場は個人の感情よりも優先しなければならない場合があります。
そしてこの国の一の女人として、皆の手本であらねばならないのです。
何より政事に参加することはなくとも、常にその動向を把握して、帝をお支えすることが勤めなのです。
あと数日後には後宮へ戻らなければなりません。
この悲しみは人に知られぬよう、今日でこの胸の中に納めよう。
そう中宮は己に言い聞かせました。

ふわりと吹き抜ける風に高雅な梅の香りが漂うのを、もう春であったか、と命を慈しむ気持ちに優しい笑みを浮かべられるこの御方こそ、後に聡明さを持って帝を支えられた慈悲深い国母として語り継がれる尊い御方となるのです。

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