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令和源氏物語 宇治の恋華 第百六十六話

第百六十六話 浮舟(三十)
 
何やら具合が悪そうに臥した娘が可哀そうで、常陸の守の北の方は子供の頃に聞かせた子守唄を歌いながら優しく手を握りました。
「何も心配することはありませんよ。ゆっくりお休みなさい」
その心地よさにいつしかうとうとと、浮舟はようやく安らかな眠りに引き込まれてゆくようです。
姫がすっかり寝息を立てはじめると北の方はこの宇治にはもう来ることも無いであろう、と一人寂しく取り残される年老いた弁の尼を不憫に感じました。
せめてこの縁を結んでくれた礼を伝えようと尼の住む廊へ足を向けたのです。

深更の月が青く、辺りを妖しく照らす静かな宵でした。
水にたゆたうような心地に深い眠りに落ちてゆく浮舟の横顔はまるで人形のように美しい。
魔に魅入られるとしたならばこんな折かもしれません。
雲が月を覆ったその刹那、川音さえも隔てた闇が浮舟を包みました。
まるで見えない手に引かれたように身を起こした浮舟は音も無い漆黒の闇に怖れを感じました。
しかし体は意志とは関わりなく導かれるように寝所を離れようとするのです。
姫の傍らで無邪気に寝息をたてる侍従の君に異常を知らせようと手を伸ばそうとしても体が言うことを聞かず、声さえあげられません。
 
これは一体どうしたことであるか。
 
体はそのまま寝所を出ようとするのを抵抗しながら、浮舟は目の隅に自分がそのまま変わらずに寝入っている姿を認めました。
これは夢なのであろう。
ほんの少し落ち着きを取り戻し、導かれるままにやって来たのは弁の尼の住まう廊でした。
母君と弁の尼が徒然に語らっているらしいのですが、やはり二人は浮舟の存在には気付きません。
「我が姫が無事に京へ迎えられることとなったのも、尼君が縁を結んでくれたおかげでございますわ。本当に感謝しておりますのよ」
「わたくしなどよりも薫さまの御心に感謝すべきでございますわ」
「それはもちろんですけれど、最初のお話を聞いた時には身分違いも甚だしいと恐縮しましたもの。それに例の亡き大君さまと薫さまのことを聞いては、君に嫁がせるなどととんでもないと考えるのが母親というものでございましょう。あなたが薫さまのお人柄をよく話してくださったので、私もこうして決断することができたのですもの」
「わたくしは薫さまにも姫君にもいいようにと考えただけでございます」
「ええ。でも、薫さまは本当に思慮分別のある優しいお方ですわ。我が姫を亡き大君の形代として愛されるのではないか、と気が気ではありませんでした。それが姫にまっすぐに向き合って愛してくださっておられる」
「薫さまは情けのわかる御方ですもの。本当にお幸せになってよろしゅうございました」
影のようにそこにある浮舟はこの会話を聞いて、自分が薫君に望まれたのは亡き異腹の姉である大君の身代わりとしてであったことを知ったのです。
それは姫には衝撃的で残酷な真実なのでした。
「同じ姉妹でも中君さまがよい縁を得たのを羨ましいと思っておりましたが、今となってみればあのような御方を夫に持たれるのも気苦労ばかりかと不憫ですわ」
「それは宮さまの女人に関する困ったお癖のことを仰っているのですね」
「ほんに、あの二条院にて姫に万が一のことがあったらと気が気ではありませんでしたわ」
「宮さまはあの通りの美貌の持ち主ですし、少しでも美しい女房と見ると素通りできぬご性分ですので、若い方々はたいそう仕えづらいお邸ですわねぇ」
「噂で聞いたことがありますの。宮さまは気に入った女人を姉の女一の宮さまへ女房として奉るのだとか。そうしてたまに女一の宮さまの御殿を訪れては情けをかけるのだそうね。もしも我が姫があの折に宮の物となっておれば同じように辛い憂き目を見たことでしょう。そうなっては世間のいい嗤い者ですわ。中君さまにも顔向けできなくなりますし、娘とも縁を切らねばならぬところですもの」
浮舟はまたもや衝撃を受けました。
あれほど信じた宮の言葉が一時的な恋の情熱によってもたらされたもので、実際にそのような辛い目に遭った女人たちがいることなど露とも知らなかったからです。
 
そういえばあの対岸の隠れ家に居た折に、宮は女房の裳を自分に付けさせて戯れていたではないか。
それが戯れではなく己の末路を暗示していたとは。
それにしても宮と通じたことを知られたならば、世間からは嘲笑され、母にも縁を切られるとは、大変なことを仕出かしてしまった。
 
浮舟は次々と聞かされる真実に驚愕し、身の置き所がないほどに恥ずかしくなりました。
「薫さまには正妻の女二の宮さまがおいでになりますが、姫のことをちゃんと打ち明けて、女二の宮さまもご承諾なさったとのこと。さすが尊い姫宮さまは御心が広くていらっしゃるわ。ようやくわたくしの長年の悩みも解消されて心穏やかに暮らせるというものです」
「これもすべて宿縁の賜物でございますわ。わたくしはこの宇治から皆様方のお幸せをお祈りいたしましょう」
「尼君さま、ありがとうございます。それにしてもこちら側は水の音がさらに大きく響くものですね。普段は恵みを与える豊かな宇治川ですのに、このように月も無い夜は恐ろしいですわ」
「恵みを多く与えてくれるものにはそうした一面もございます。先頃も子供が落ちて亡くなったんですの。龍神さまの元へ召されたのだと皆は噂しておりますが。おや、このようなお話は幸せになる御方の母君には縁起がよろしくはありませんわね」
「ええ、ですが子を亡くされた母親が哀れですわね」
「ほんに」
常陸の守の北の方と弁の尼君はそうして眼下に流れる暗い宇治川をじっと見つめるのでした。

次のお話はこちら・・・



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