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令和源氏物語 宇治の恋華 第百六十七話

第百六十七話 浮舟(三十一)
 
まるで心が砕けたように痛い。
信じたものが儚く消え去ったのが虚しくて、とめどなく溢れる涙を抑えきれぬまま、浮舟は目を醒ましました。
 
今、見聞きしたものは夢であったのか。
果たして惑うものは心がその身を抜け出て彷徨うこともあるという。
ならばあれは真実のことであるに違いない。
薫君が自分に向けたまなざしの向こうには恋しい女人への尽きぬ想いがあり、匂宮の心を蕩かすような言葉は真実ではなかった。
 
どちらにも本気で愛されたというわけではないことが浮舟を孤独に苛む。
今宵の宇治川は悲しみが湛えられた深い水。
いっそこの流れに身を委ねれば死の贖いで罪が雪がれるように思われて、引き寄せられるように川面を覗きこむ浮舟なのです。
もしもこのまま自分が居なくなったならば母君は嘆くに違いない。
薫君と匂宮も同じように悲しんでくれるであろうか。
しかし、人はそう簡単に生を思い切れるものではありません。
たとい己が寄る辺なく漂ってきた小舟であるように、その存在が確かでなく思われても、愛してくれる人がただ一人いてくれれば、それはこの世への楔となり、自分可愛さにそうそう命を投げ出すようなことはできないのです。
母より先に逝くという不孝を、悲しませるという大罪の前に心も揺らぐというもの。
 
ああ、なんと勇気のないわたくしであろう。
 
浮舟は自分を不甲斐なく、かといって救われる道も無い状況にただ佇むばかりで途方に暮れているのです。
健やかに眠りについたと思われた姫がまた物思わしげに臥しているのを母君は気に懸かって仕方がありません。
右近の君などに念入りに物の怪を退治するような祈祷を重ねて施すことを指示し、愛娘の明るい笑顔を見ようと励ましました。
「姫には気苦労ばかりさせて参りましたねぇ。御身がこのように悩み臥されるのはすべてこの母のせいなのですよ。八の宮さま、お父上さまとの和子であるあなたを伴って受領などに嫁いだ為に入らぬ気苦労をかけてしまいました」
「そのようにおっしゃらないでくださいまし、お母さま。わたくしこそ至らぬ娘で申し訳ないばかりで」
「まぁ、姫がそのように仰るなんて。ねぇ、薫さまに愛されてめでたく京に迎えられようという時ではありませんか。わたくしども親子がようやく陽の目を見る機会ですわ。いろいろと不安もありましょうが、慎ましく、出しゃばらず、ただ君だけを信じておればよろしいのですよ」
母君にそう励まされても、どうして薫君の愛情だけを頼りに出来る身の上であるでしょう。その身は匂宮の物となり、なかば心も攫われてしまっている浮舟なのです。
このまま母と離れるようなことになれば二度とは会えぬ予感がして、普段は無理を言わぬ姫が珍しくだだを捏ねました。
「お母さま、どうかもう一日だけでも側に居て下さいませんでしょうか。体調も優れないせいか心細いのです」
「かわいい姫や、お気持ちはよくわかるのですよ。でも、あなたの妹姫が月満ちて初産を迎えようという時なのです。出産は命をも落としかねない大仕事ですわ。せめて側で見守ってやりたいと思いますの。母の気持ちをわかってくださいますね?」
「ええ、わかっておりますわ」
浮舟は自身が追い込まれて、その命も明日とも知れぬ状況であるものを、その罪故にどうして母に言えようか。
心に重いものを抱えたまま、ただ青い月の名残を眺めるばかりなのでした。

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