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令和源氏物語 宇治の恋華 第百六十八話

第百六十八話 浮舟(三十二)
 
京にて浮舟が病に臥せっていると聞いた薫君は気が気ではありませんでした。
何しろ以前大君をこのように離れた京で想いながら亡くしたことのある君だからです。
 
いったいどのような加減であろうか。
 
気になって仕方のない薫は頻繁に浮舟君の様子を尋ねるべく遣いを送っておりました。
もちろんこうした私信にはもっとも信頼すべき腹心の乳兄弟・惟成を遣わすのです。
惟成と薫は主従でありながら同じ目と耳を持つ半身のような近しい関係であるので、薫君にとって良からぬことあれば誰よりも嗅覚を働かせる惟成であり、表にも出さない惟成の懸念をも即座に見抜いて心を配る薫君であるのです。
そんな惟成が宇治を訪れたのは浮舟にとって不運としかいいようがありませんでしょう。
浮舟が母君との束の間の別れを惜しんでいる頃、事態は大きな局面を迎えていたのです。
惟成がいつものように手紙を持参した処、前にも見た下人を見咎めました。
それは以前は何気なくすれ違った男であり、どこの誰とも知らぬ者でしたが、俯きがちに気配を消そうとするのが不自然に感じ、惟成の鋭敏な嗅覚がよからぬものを感じ取ったのでしょうか、見過ごすことは出来ませんでした。
「おい、お前。いったいどこの遣いの者か」
「下人同士でそのように詮索はするなよ」
惟成をも知らずにこの山荘を出入りしているとは、どうした素性のものであることか。惟成の第六感は尋常ではないと警鐘を鳴らしました。
「我は薫右大将の遣いなり。下人扱いしてくれるなよ」
「そうでありましたか。いやはや、私が懸想した女がここにいるもので」
そう言葉を濁す男を訝しく睨む惟成であります。
「お前は手紙を持ってきたのであろう?自分の懸想する女に自ら手紙を運ぶ者などあろうかよ」
「ありゃりゃ、さすが右大将さまの腹心であらせられますな。なんと言い訳しようとも見逃して下さらぬ。たしかにこの文は私が書いたものではありません。我が主人、左衛門の大夫・時方さまのお文でございます。侍従の君という女房に熱をあげておられるのですよ」
「ああ、あの侍従の君か。なかなかよい女であるからな。これは無粋であった」
そう言って惟成はその下人を解放しました。
下人はしてやったりと胸を撫で下ろしましたが、この天下の右大将の賢しい腹心・惟成を欺けたと思うのは浅はかなのです。
胡散臭く思った惟成は近しく使っている童のなかでも機転の利く子を選んで囁きました。
「そっと気付かれぬようあの下人を尾行けてゆくのだ。左衛門の大夫・時方の邸にはいるかどうかを見極めるのだぞ」
「はい、惟成さま」
そうして理知的に頷いた子供は葉陰に紛れるように消えたのでした。
 
戻って来た童の話を聞いて、惟成は胸騒ぎを覚えました。
これは一刻も早く薫君にお知らせせねばならぬ、と三条院へと戻ったのです。
薫君は平服の直衣を召して今にも出掛けようとしているところでした。
近頃姉である明石の中宮のお加減が悪く、六条院へお里下がりをしているというので、見舞いにと車に乗り込もうという折、惟成の表情を読み取った君はすぐに傍らに呼びました。
「惟成、浮舟に何かあったか?」
「いえ、浮舟さまはお変わりないようでございます。それよりも妙なことがございまして、事の真意を見極めようと今まで手間取っておりました」
「そうか。何事だ?」
惟成は他の隋人の手前口を噤みます。
それと察した薫はそのまま車に乗り込んで出掛けることにしました。
しかしいつも慎重な惟成であるものの、どうにも常以上に神経質な表情が気になって、それは薫にも伝染わるものです。
「殿、邸に戻られてからお人払いを」
「うむ」
何事かよからぬことがあるのであろう、薫の表情は自然に険しくなるのでした。

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