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令和源氏物語 宇治の恋華 第四十七話

 第四十七話 恋車(九)
 
明け方の朧に霞む月を車から眺めながら、匂宮は宇治の橋姫たちを想っておりました。
六条院で管弦などが始まったので長く夕霧に引きとめられて、例の少納言の君の元へも行けずじまい。否、薫にちくりと痛いところを衝かれて少納言のところへ行こうという気持ちも失せてしまっていたのでしょう。
匂宮はこれまで何不自由なく、それこそ女にも不自由なく若さを謳歌してきたもので、つまらぬ意地を張る誇り高い女人には目もくれず、自分だけを愛してきました。
宇治の橋姫たちを諦めるのも易きことと考えておりましたが、これほど心惹かれるのはどうしたことであろう、とぼんやりと考え込んでおりました。
しんと静まり返る小路にごとごとと牛車の音だけが響き、うっすらと霧が立ち込めて、幽冥を彷徨うが如く、己の裡を覗きこむにはよい頃合いです。
匂宮は美しく明るい無邪気な性質でしたので、幼い頃から父母の愛情をたっぷりと注がれ、周りの大人たちからも特別に愛されて成長しました。
帝の皇子という尊い身分に美しい容姿、これ以上にないほど倨傲でも許される身の上であったのです。
そんな匂宮が初めて叶わぬと思うたのが薫という存在です。
薫は幼い頃から大人びて時折見せる翳りのようなものがえも言われぬほどに艶やかで、神秘的な雰囲気の子供でした。
加えて凡人には備わらないであろうあの芳香、ただ人ではない身分の宮はただならぬ薫の有様が心底妬ましくてならなかったのです。
果たして薫は匂宮のライバル心など意に介さぬのがまた気に食わぬところであったしょう。
自分本位で傲岸な宮はどこそこの女が薫に想いを寄せていると聞くや言い寄り、深窓の姫であろうとも手中にして溜飲を下げておりましたが、そのようなことを続けるうちに愛というものを信じることが出来なくなっているのでした。
これほどに愛というものを翻弄する無邪気な御方が愛を知るはずもない。
ですが、それがどれほどに空しいことであるかというのにも気付かれぬほどに愚かではない。
もともとは素養のある優れた君なのです。
ちょうど宮は岐路に差し掛かっているのでした。
このまま薫をライバルとしていつまでも子供のように振る舞っていても自身が満たされるわけではありません。
己が幸せを見出せる半身を求め、ひとつ高い所に進むべきか、と知らず決断を迫られる処に差し掛かっているわけで、それが運命の呼び給う声に耳を傾けさせているのです。
運命は宮に愛に気付けと囁いているように思われます。
宮が宇治の姫に心惹かれて捨て置けないのはそのように運命の輪が回り始めているからなのでしょう。
匂宮がこれまで手紙を差し上げて落ちぬ女人はおりませんでした。
それが宇治の姫には何度となく手紙を差し上げ、躱されて一年になろうとしております。
なよやかであるものの事あるごとに気骨を見せられて、宇治の姫君たちの精神性に魅せられ、此度ばかりはそう性急には事を進められないのです。
じっくりと時間をかけて、宮はあの最初に文を交わした季節を迎えました。
春の挿頭を手折りにという季節です。
よくもここまで諦めずにきたものよ、どれほどの距離が縮まったか、と自嘲しながら宮はまた宇治の中君に歌を贈りました。
 
 つてに見し宿の桜をこの春は
    霞へだてず折りてかざさむ
(去年の春に他所ながらに見た桜を今年こそは手折って挿頭としたいのですよ=この春こそはあなたを我が物としたいのです)
 
中君はこの大胆に謳われた文に恥辱で顔を赤らめましたが、そうといって美しく整えられた文にすげもなくでは情緒もないと、絡めとるようにして最後の一線は許しません。
 
 いづことか尋ねて折らむ墨染めに
         霞こめたる宿の桜を
(こちらには墨色にそまる喪中の桜しかありませんものをどこを探して手折ろうというのでしょうか)
 
やはりぴしゃりと言い返してくる心地よさに匂宮は内心やられた、と思うものの満足げな笑みを浮かべずにはいられないのでした。

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