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紫がたり 令和源氏物語 第四百三十五話 幻(四)

 幻(四)
 
二月になると、明石の中宮は内裏へ戻られました。
しかしやはり父・源氏のことが気懸りであるので、三の宮(後の匂宮)を二条院に残されることにしたのです。
紫の上が養育した孫のなかでも特に可愛がり、明るく活発な三の宮がきっとこの二条院を明るく照らしてくれるであろう、という中宮の配慮によるものでした。
自責の念から勤行に明け暮れて、心を巌のように堅くしていた源氏もかわいい孫の姿を見ると、そのまなざしが緩むようであります。
「おばあさまが私にこの梅の守をせよとおっしゃたのですもの。立派にそのお言葉を守ってみせますよ。おじいさま、見てくださいな。もうすぐ満開になりそうですよ」
三の宮はそう言って毎日梅の木を見守り、時には水を与えたりしているのです。源氏はそんな宮が愛おしく、膝に抱いて軒先で過ごすことが多くなっておりました。
空気も温み、まさに花の季節が到来しようとしています。
そこへ一羽の鶯が飛来しました。
「おじいさま、ほら、梅の木に鶯がやって来ましたよ」
鶯はまるで梅の香りに誘われるように枝を行ったり来たり飛び回り、いつもの梅と知ったのか、恭しく初音を上げました。
 
植ゑて見し花のあるじもなき宿に
     知らずがほにて来ゐる鶯
(この木を植えた主人はもうこの世にないのを、知らぬ顔した鶯がやってきて鳴いているのが寂しいことだ)
 
梅の花が開くほどに鶯も数を増し、季節は春の盛りへと移り変わってゆくのです。
この庭は紫の上が丹精したものでしたが、実によく計算されつくされておりました。梅がほころび始めると庭のそこかしこにすみれの紫が見え始め、たんぽぽの黄色が映える頃には桜の蕾が大きく膨らむのです。
薄紅の桜が花開くと枝垂れた桜の大樹が紅色の蕾を膨らませて風にそよぐ姿はなんとも艶やか。
このように桜でも種類によって開花の頃合いが違うのを紫の上はよく心得て配置しているのでした。
薄紅の桜が散る頃には山吹の黄色が桜の根元に大きく花を咲かせて、まさに謳春。
「おじいさま、今年も見事に桜が咲きました。さてどうやったらこの花を散らさずにすむでしょう?」
三の宮は少しでも長く花を愛でたいと頭を傾けて一生懸命に考えております。
「そうだ、風に当たらないように几帳でまわりをぐるりと覆ってしまってはどうかしら?それはもう大きな几帳ですよ。おじいさま、誂えてくださいますか?」
源氏や女房はそうして目を輝かせる幼子が可愛くて仕方がありません。
「その昔、花を散らさないために空を覆うほどの大きな袖が欲しいと言った人がいるとか、いないとか。宮さまの方が現実的で、まこと賢い」
幼い宮には散る花の美しさはまだわからぬであろう。
この無垢な在り様がなんとも眩しいものだ、と源氏は目を細めます。

それにしても春を愛した紫の上らしい庭であるよ。
日によって庭が表情を変える、まるで生きているようで、これ以上に春の息吹を感じる情趣はありましょうか。
あの人と初めて会ったのはこの位の時期であった。
樺桜の咲き乱れる北山で逃がした雀を惜しんで泣いていたっけ。
『雀の子を犬君が逃がしてしまったの。伏籠の中に閉じ込めておいたのに・・・』
お婆さまに命あるものを捉えてはならないと窘められていた。
ただただ愛らしいものを留めたいというばかりの無邪気な少女であった。
紫の上はあの頃となんら変わらずに生い立った無垢な人であったよ。
源氏は懐かしさが込み上げてきて、また涙が溢れそうになるのでした。

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