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紫がたり 令和源氏物語 第八十二話 賢木(十一)

 賢木(十一)

源氏は藤壺の中宮への物想いを重ねるあまり、そのまま考え事をしながら寝付いてしまうような始末で、もう子供ではない紫の上にはいずれかの女人のために御心を悩ませているのだわ、と見透かされているようです。
二条邸で塞ぎこんでいるのも辛く、せめて心の平穏を取り戻そうと、亡き母ゆかりの寺である雲林院(うりんいん)へ参詣に出掛けることにしました。
こちらには亡き母の兄君、源氏の伯父が律師としてお勤めしておられます。

平安時代には仏教があつく信仰されていて、御仏が精神の拠り所となっておりました。
これまでに度々記しているように、病に倒れると平癒するよう祈祷し、心にかかることがあれば勤行(ごんぎょう)して己を見つめ直すということが行われていたのです。源氏も宮への募る想いに病み疲れて、山の霊気で身を清めて心を鎮めようと考えたのでした。

雲林院には修行に一途な僧侶たちが大勢おりました。
一日の始まりから終わりまで、定められた行を積み、無駄のない動きで一身に御仏にお仕えしているのです。
源氏もその中に混じりながら、経を読み、学問を得意とする僧侶達と経文の解釈などを論じていると自然心は日常から解き放たれ、ようやく理性的に物を考える落ち着きを取り戻したようです。
寺の周りの紅葉は燃えるように山を染め上げて、その美しさを愛でる余裕も出てきました。
それでも一人になると考えてしまうのは、やはりあのつれない宮のことです。
「春宮のことをお考えになってください」
そう宮は必死に訴えておられました。
確かに宮の仰ることももっともである、とようやく考え及ぶようになったようです。
それにしても宮を目の前にしてしまうと自制が利かないのは、長年の想いが深すぎるせいなのでしょうか。
未だ宮の御髪の感触が掌に残ります。
この苦しい想いから逃れられるならば、いっそ出家してしまいたい。
この数日何度も頭をよぎることもありましたが、源氏しか頼るあてのない紫の上を遺しては無理であるな、とご自分に言い訳をなさいます。
誰よりもこの世に執着が強いことを源氏の君は認められないのです。
源氏は心に掛かることが多く、ほんの二、三日の滞在のつもりでしたが、まだもう少し勤行などにあけくれたいものだ、と紫の上に手紙をしたためました。

源氏:浅茅生の露のやどりに君おきて
        四方の嵐ぞしづ心なき
(私の心から御仏にすがる道を選びここに参りましたが、浅茅に結んだ露を見てあなたを思い出しました。きっと心細く感じているのではないでしょうか?そう思いをはせるだけで、私の心は落ち着きません)

紫上:風吹けばまづぞ離るる色かはる
         浅茅が露にかかるささがに
(浅茅の原に吹きすさぶ風が蜘蛛の糸を乱すように、風のように定めのないあなたの御心にわたくしも頼りなく不安に思うのです)

まったく俗世のほだしというものはこの可愛らしい紫の上であり、恋しさのあまりに御仏の世界から引き戻されると、ここは賀茂の斎院がおられるところにも近いなぁ、などと例の朝顔の姫君への想いも募る。

源氏:かけまくはかしこけれどもそのかみの
        秋の思ほゆる木綿襷(ゆうだすき)かな
(今は神に仕える身となられたあなたに申し上げるのは神威を憚り畏れ多いことですが、尚さらにかつて秋に交わしたお手紙を思い出さずにはいられません)

手が届かなくなるとよけいに惜しまれるのが源氏のいつもの困ったお癖なのです。
そのような源氏の気性を心得ていられる朝顔の斎院はそれとなくお手紙を返されました。

 そのかみやいかがはありし木綿襷
        心にかけて忍ぶらむゆえ
(わたくしとあなたの間にその昔何があったというのでしょう。神にお仕えするこの身にはやましい心などは微塵もございません)

それは昔から変わらぬ朝顔の姫君の御姿勢であるので、あの御方らしい、と源氏は憎くも思わず、懐かしさに笑みを浮かべるのでした。

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