令和源氏物語 宇治の恋華 第百五十五話
第百五十五話 浮舟(十九)
二月になると薫は宇治を訪れました。
まずは山の阿闍梨に挨拶を済まし、念誦堂で八の宮さまと大君の為に心を込めて経を唱え、心清しく山荘へと向かいました。
春めいた日差しに梅の香りが高まるのを穏やかに眺める薫君の御姿は絵のように美しい。このような貴人の足取りは雲を踏むかのごとく軽かろう。
久しぶりに浮舟に逢えると思うと心なしか表情も柔らぐ君なのです。
「惟成よ、山はもう春であるなぁ。うららかに霞たなびく様がなんとも趣のあることよ」
「まことに。そういえば初めてこの山に来た時には見事な雄雉に出会ったのですね」
「うむ、もう昔のことになってしまったが、山はあの時と何も変わらぬ。自然というものは我ら人よりも偉大であるよ」
「はい」
昔語りをしながらの道行きはのどかで、よもや浮舟が心悩ませているとは露とも知らぬのがなんとも皮肉なこと。
浮舟は薫が訪れたのをほっと安堵して嬉しいと思う反面、宮とのことを隠し遂せるかと気が気ではないのです。
薫君は隠し立てすることもなく宇治を訪れているもので立烏帽子に直衣という貴公子らしい装いが君の凛とした表情をさらに艶やかに輝かせております。
出迎える下人や女房たちに気さくに声を掛ける様子も変わらずに優しげで親しみやすく、浮舟がいるであろう御座所に目を向けるとやんわりと笑みをこぼしました。
その姿に浮舟の心はまた惹きつけられて、やはりこの君こそ背たるに相応しいと心が安らかに凪ぐようです。
穏やかな愛を秘めた薫君と鮮烈な情熱の匂宮はまったく真逆にあるような存在で、それぞれが魅力的でまた浮舟を惑わせる。
もしも宮との事がなければ浮舟は何の気なしにそっと笑みを返せたことでしょう。しかし今は天にも目があるように思われて、恐ろしい。
それは悔恨の念か宮に対して薫と逢わねばならぬという詫びの心か、それは心の織り成す綾のこととてはかり知れません。
なかなか目を合わせずに隔てを置く浮舟に薫は違和感を覚えました。
「私がしばらく来られなかったのを恨んでいるのかね?」
「そのようなことは」
そう言いさしてまた目を伏せる姿が艶めかしく、逢わぬ間に物思いに苛まれて情緒を解する女人へと成長したか、と薫は考えましたが、よもや匂宮の情熱が蕾であった浮舟を開かせたとはご存知ない。
「あなたにどれほど逢いたかったか」
言葉数の少ない薫の言葉は何よりも嘘がありません。
「わたくしもお逢いしとうございました」
そうして薫に身を預ける浮舟の声音にいつになく熱を帯びていると思われるのはそれほどにこの人を顧みなかったからであろうかと愛情もじわじわと湧き上がる。
それともこれは匂宮が浮舟に宿した情熱の焔(ほむら)か。
薫はその濡れた瞳に抗しきれずに浮舟を引き寄せました。
匂宮に抱かれている時には薫を想い、薫に身を委ねながら匂宮の情熱を忘れられぬ、惑乱するその姿はなんとも妖しく魅惑的で大君とは違った顔を見た薫はこの女に形代以上の想いを寄せずにはいられなくなりました。
「あなたには今まで内緒にしていたが、京にあなたを迎える邸を作らせているのですよ。このように壮大な宇治川があるわけではありませんが賀茂川の水を引き入れた洒落た造作をと考えています。なにより私の邸とも近いのでもう御身に寂しい思いをさせることはありません」
「薫さま、嬉しゅうございますわ」
浮舟は縋るように薫の胸に顔を埋めながら、匂宮とのことは今日を限りに忘れよう、と心に刻んだのでした。
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