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令和源氏物語 宇治の恋華 第百五十九話

第百五十九話 浮舟(二十三)
 
留守として山荘に残り、他の者達の目をうまく欺いた右近の君は浮舟君と侍従の為の装束などを整えて、滞在先の山荘へと急ぎました。
するとそこには厳しい物忌みという口実ですので、邸の下人も宮たちの御座所には近づけさせず大内記・道定がもろもろの差配に奮闘しておりました。
右近はどうにもこの男が好きになれません。
野心のある男性というのは魅力的なものですが、道定はこっそりと周りを盗み見て窺うような嫌な目つきをしているのです。
宮の好色心につけ込んでの立ち回りも鼻につきます。
「あなたはまたこんなことを仕出かして」
「ははは。右近殿はどうも私に辛く当たられますな。宮さまの御要望を私が断れるとお思いか?」
「忠臣ならばたとい逆らうことになっても御諫めするべきですわ。こんなことばかりを繰り返しては、宮さまは本当に東宮になどお立ちになれぬかもしれませんわよ」
「そう厳しいことばかりおっしゃるな。何より宿縁がなければ男と女はどうにもなるわけがございません。宮さまと浮舟君は結ばれる定めであったのですよ」
「さて、この定めがどのように導かれるものか。わたくしにはけして幸せな結末を迎えるとは思えませんわ」
右近はぷいと背を向けて宮さまと浮舟君の元へ向かいました。
右近は極めて理性的に物を考えられる賢い女人です。
やむなく匂宮を手引きするような形になってしまいましたが、宮の移り気な性質や浮舟君の置かれた現実などを鑑みるにどう転んでもこの秘密の関係が良い実を結ぶとは信じられないのです。
そのようなことを考えながら難しい表情を浮かべた右近は山荘に足を踏み入れて言葉を失いました。
狭い粗末な造作の山荘に形ばかり網代屏風などを引きめぐらして御座所は備えてあるものの、なんとも露わな姿で眠る匂宮と浮舟君の様子に、まるで萱鼠(かやねずみ)の巣に紛れ込んだような錯覚さえ覚えて、次の間ではこちらも身を寄せる時方と侍従の姿を見るや、とても“宮の姫”と呼ばれた人には似つかわしくないことであるよ、と顔を歪ませました。
それはまるで鼠の情婦。
匂宮はたしかに美しくはありますが、朝の光においてはすべての幻想も白日の下に晒されるのです。
「なんとおいたわしい」
もしも姫の母君がこの姿を見たならばどれほど嘆かれることか。
右近は情痴に溺れる浮舟君を冷ややかな目で見つめておりました。
 
「お手水をどうぞ」
時方が甲斐甲斐しく世話をしながら、和やかに食事が始まりました。
匂宮に寄り添う浮舟君はいまだしどけない姿であるのが右近には耐えがたい。
目を伏せた右近は道定に厳しく当たったのは自身への憤りもあってのことかと考えておりました。
浮舟君にお仕えし始めて日が浅いことから意見することは控えてきましたが、このままでは姫は身の破滅を迎えることになるでしょう。
匂宮は姫を京へ迎えると何度も口の端に上らせますが、それは所詮日陰者としてのもの。姫は世間に知られることも無くあの以前の三条の邸のような賤しい者たちの住むような邸に匿われることとなるに違いありません。
何より薫君という夫を持つ身でありながら他の男と通じた娘をあの気の強い母君が許すかどうか。
そうなれば母子の縁も切られて姫は天涯孤独になるのです。
そしてこのこと中君にも知れようものならば姫は本当に息を殺して生きてゆかねばならぬでしょう。
同じ京へ引き取られるにしても薫君が姫君の処遇を考えていられるのとは明らかに違うということが浮舟君にはおわかりにならない。
右近は人知れず重い溜息を吐きました。
「姫さま、お召替えを致しましょう。御髪も梳ってさっぱりとなさいませ」
「そうね」
狭い邸とて、衝立の向こう側で装束を変え、髪を梳かれる姫君をどんな様子かと匂宮は悪戯心に衝立を除けました。
「宮さま、女の身繕いを覗くのはおよしになって」
浮舟の抗議も可愛いものだと宮は意にも介しません。
「よいではないか。私たちの間ではもう何も隠すものはないでしょうに」
そのどこか淫靡で含みのある言いように浮舟はまた頬を染める。
「これは侍従の女房の装束だね」
そこに畳まれていたしびらと呼ばれる小さな裳を宮は手に取られて、良い思いつきをしたと浮舟に着けさせました。
「どうだね、こんな私だけのかわいい女房が毎朝夕世話をしてくれれば幸せであるのに」
「まぁ」
浮舟も常とは違うことをされてまんざらでもない。
否、もはや心は匂宮へ仕える召人と成り下がっているものか。
 
匂宮はこの浮舟を女房として姉の女一の宮へ奉ったら如何なものか、と考えておりました。
お側には身分高い女官は数多く侍っている御殿ではありますが、この浮舟ほどに美しい人はいないと思われて、もしも奉ったならば可愛がって下さるに違いない。そうしてたまに通うことができれば尚都合がよい、というようなことを夢想しているのでした。
 
このやりとりを聞いた右近は背筋がぞっと冷たくなりました。
右近は中君に仕えておりましたので噂に聞いた程度でしたが、何でも匂宮は自分の愛人とした女人を女一の宮の元へ女房として奉ることが度々あるのだとか。
そうして女人たちは時折訪れる宮の相手をして徐々に打ち捨てられてゆくのです。
この浮舟君の末路が哀れで、女房と呼ばれて戯れている姿がいたわしく、どうにか分別をつけてさしあげなければ、と気負う右近の君なのでした。

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