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紫がたり 令和源氏物語 第三百七十九話 柏木(九)

 柏木(九)
 
「まこと優れた御方は早く天に召されてしまうことよ」
柏木が身罷ったということで世の人々は彼の早世を悼みました。
今上は楽の手ほどきを受けたこともあり、管弦にはこの人の右に出る者はないと頼りにしておりましたし、催し物の段取りなども伝統を踏まえた上での新しい要素を取り入れた趣味の良さに定評があったので、貴重な人を亡くしたと悲しまれました。
また柏木は名門の出で当代一の貴公子といわれながらも気さくな性格で身分の低い者たちにも分け隔てなく接していたので下々の者にまで慕われていたのです。
あの人懐こい笑顔を見られなくなると思うと一抹の寂しさがこみあげてくるのは皆同じ思いなのでしょう。
いずれは大臣ともなる逸材でありましたので、この若さでまさか儚くなってしまうとは、この国にとっても大きな損失であると惜しまれ、涙を流さない者はいないのです。
 
源氏も柏木に対してはいろいろと複雑な思いはありましたが、この世を去ってしまっては恨むこともあるまい、と苦い気持ちも胸の奥にしまい込みました。
こちらが恨みを遺せば柏木の御霊も縛られ続けることになるでしょう。そうなればあの御息所のようなあさましき存在になり下がりかねないのです。
源氏はあの若者を愛しておりました。
上品で優れた感性を持ち、よく笑う素直な青年でした。
女三の宮とのことはまさに運命の悪戯とでもいいましょうか、きっと柏木にはどうにもならぬ定めであったのだと思われると、己の冷酷な仕打ちが大人げない振る舞いであったように感じられ、柏木の死の一端は自身にもあるのではないかと悔やまれる君なのです。
源氏はいつぞやの柏木が宮へあてた恋文を取り出しました。
その美しい手跡はやはり見応えのあるものでこれほど才能溢れた若者はそうはいないでしょう。
源氏はつと涙を流すと、その手紙を火鉢にくべました。
めらめらと燃える炎はやがて鎮まり、そうして空に立ち上る煙をみつめて呟きました。
「柏木よ、これでお前の罪は無くなったぞ。清しい心で後の世に生まれ変われよ」
人を愛することに何の罪咎があろうか。
源氏は過去の己の姿と重ね合わせながら、心から青年の死を悼みました。
 
女三の宮はだいぶ加減も良くなり、昼の御座所に長くおられるようにまで回復していらっしゃいます。
髪は短くなられましたがそれまでとなんら変わらずお暮らしなので、本当に形ばかりの出家といっても過言ではありません。
ただ可憐な宮には不似合いな尼の鈍色のお召し物がどこか物悲しい。
それでも出家してからというもの、源氏は毎日昼間に六条院を訪れては世話をやくようになったのをうれしく感じる宮であります。
夫婦としての関わりがなくなり、重苦しかったものも落ちたように御心は軽くられました。
それは以前よりも増して浮世離れした感じといいましょうか。御出家されたのでまさに浮世とは関わりを絶ったわけですが、御子を顧みることもなく別世界に生きておられるようなのです。
そんな宮の元に柏木の訃報が届けられました。
「そう、あの方亡くなったの」
宮はぽつりと呟きました。
小侍従はなんと冷たい御心かと顔を歪めて御前を退出したので、一人になった宮は煩わしげに考えておられました。
世を捨てようと懇願した時に初めて感情がはじけたように溢れたものがどういうものであったのか、今の宮には理解できるのです。皮肉にも世を捨てた今となって人の思いというものを知ったということなのでしょう。
どうやらあの柏木の狂おしいほどの愛に触れて宮は目を開かされたようです。
そして源氏への愛を悟った時にはその掌に残されたものは何もありませんでした。
虚無感に苛まれた宮は御心を胸の裡深くに押し込めてしまわれました。
もうすべてが過ぎ去ったことであるよ、そう己に言い聞かせても、知らずにこぼれ落ちる涙の不思議は如何なるものか。
はたはたと落ちる涙をそのままに何の色も表さない宮の横顔を
几帳の陰で様子を伺っていた小侍従は哀れと共に涙を流しました。

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