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紫がたり 令和源氏物語 第三百十七話 若菜・上(十一)

 若菜・上(十一)
 
尊い皇女を北の方に迎えた源氏ですが、すでに失望の念がじわじわと込み上げておりました。
女三の宮は源氏が思っていたような姫ではありませんでした。
その瞳は茫洋として意志がまるで感じられません。
自ら何かを考えている風でもないので、言葉数も極端に少ないのです。
何かを問いかけても感性が乏しく、「さぁ」とか「そうですわね」といった曖昧な返事しか返ってきません。
大きな着飾った人形がそこにあるようで、会話がまるで成立しないのです。
このような姫であったとは、そう源氏は深い後悔と紫の上への申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
紫の上を煩わせてまで娶るほどの姫ではなかったということなのでしょう。
思えば紫の上がこのくらいであった時には才気煥発でちょっとした会話でも気を抜けないような知的な緊張感というものがあったものです。
朱雀院は学問にも通じ、洗練された人であるのにご自分の娘をどうしてこうも面白味も無く育てたものか、そう源氏は密かに溜息をついたのでした。
元はといえばすでにこの世にない面影を求めた源氏の愚かさが招いたことですので、院をお恨みになるなど筋違いなお話でございましょうが。
 
 
新婚の三日目の夜には源氏は女三の宮の元へ通うのに気が進まず、ぐずぐずと紫の上の側を離れることができませんでした。
その艶やかな髪が額にこぼれかかる様子や長いまつ毛を伏せた目元は匂うように麗しく、これ以上の女人はないと改めて思い知らされたわけですが、紫の上が源氏を見ようとしないのが気になります。
「今宵までは女三の宮の元へ通わねば。けしてあなたのことをおろそかにはしないですから、許してください。新婚早々女三の宮を粗略に扱うのも朱雀院の手前できないものでね」
「言い訳などなさらなくても、わたくしは何も申し上げておりませんわ」
源氏は自分の呵責で言い訳しているのをわかっているのでたいそう気まりが悪く居心地もよくないのですが、女三の宮のところへいくのはもっと気が重くなるのです。
そのままここを離れることも出来ずに紫の上の笑顔を見たいとつい甘えてしまうのでした。
拗ねた少年のように頬杖をついて柱に背をもたせ掛けているのを見て、紫の上は困った人だこと、と溜息をつきました。このまま源氏がこちらにいると、まるで紫の上が悋気で押しとどめているようにあちらには考えるでしょう。
源氏は紫の上が書き散らした歌の中に彼女の心を表しているであろう一首を目敏く見つけました。
 
目に近く移れば変わる世の中を
    行く末とほく頼みけるかな
(すぐ目の前で人の心が移っていく世の中であるのに、私はこの人だけをと頼りにするしかない儚い存在であるよ)
 
たしかに自分の浮気のせいでこのように思われるのであろうと胸が痛み、そっと歌を詠みました。
 
命こそ絶ゆとも絶えめ定めなき
     世の常ならぬなかの契りを
(命に限りはあるでしょうが、我々の間にある絆は永久に耐えることがないというのを覚えていてください)
 
その歌が真実に源氏の心からのものであったとしても幾度となく踏みにじられてきた紫の上には空々しく響きます。
「もうあちらにお渡りになりませんと。人が怪しんでおかしな噂をたてられますわ。わたくしが足止めをしていると勘繰られるのも辛いですもの」
さもあらん、と源氏は仕方なく座を立ちました。
 
 
女ばかりが残されるとそれは遠慮のない悪口などがひそひそと飛び交い始めました。
紫の上の女房たちが主人を慕って庇おう、お慰めしようという気持ちであちらの女三の宮や源氏の仕打ちなどを悪しくあげつらうのですが、紫の上はそんな振る舞いが見苦しく不快に思われてなりません。
一度口から出た悪しき言葉には邪気が含まれるもので、そうした物に触れれば不浄で身が穢されるように感じられるのです。
紫の上は女房たちに言いました。
「みなさま、悪しき言葉はあなた方自身の品格までも落としかねません。不浄は不浄を呼ぶのですよ。どうかご自分を大切になさって。わたくしのことを気遣ってくださっているのは重々承知しております。ありがとう」
近頃恨み言ばかりを言っていた女房たちはまるで憑き物が落ちたように目を開かされました。
それにしてもこの女人の凛とした気高い様子は内面から滲み出てくるものであるのか、と感服せずにはいられません。
人が苦しみや悲しみに出会った時に真価を問われるものだとすれば、これほど尊い御方はおられませんでしょう。

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