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紫がたり 令和源氏物語 第三百八十五話 横笛(二)

 横笛(二)

春の陽気が高まる頃、薫はもう部屋中を無尽に這い回るように活発になっておりました。
その日は山の院(朱雀院)から女三の宮の元に山で採れた筍が届けられており、まだ芽吹いたばかりの小さな筍ですが、ほのかに漂う土の香りが女三の宮の御座所に春の訪れを告げております。
薫がこちらにいると聞いて訪れた源氏は、笊の上にこんもりと盛られた筍のと山芋を珍しそうに眺めました。
「これは兄上からの贈り物かな?」
「春の便りですわ。先ほど届きましたのよ」
乳母はうれしそうに薫をあやしております。
源氏が目をやると薫は懸命に這いながら源氏の足元に辿りつきました。
「やれ、うれしいことだね。薫が私をめがけてやってきたよ」
そうして抱き上げた重さが幸せというものか。
「若君はこのようにお元気で。歩きはじめたらまたあっという間に大きくなってしまわれますわ」
「うむ。成長するのはうれしいが、この愛らしい姿も捨てられぬなぁ」
赤子の抱き方も堂に入った感じで、かつてはすべての女人の憧れであった君が我が子可愛いと目尻を下げるなど、誰が予測したことでしょう。
源氏は女三の宮が御父上への返事を考えあぐねているのを見て、相変わらず才気の乏しい御方よ、と薫を乳母にまかせると院の手紙を取り上げました。
 
世をわかれ入りなむ道はおくるとも
      同じところを君も尋ねよ
(俗世から離れて仏道に入ったのはあなたのほうが後ですが、どうか心をこめて仏行に邁進され、私が目指している極楽浄土で再びあなたと会えますように)
 
しみじみとした親心に源氏の心は痛むのです。
この宮は落飾され、今一人の愛娘・女二の宮はご降嫁の末に若くして未亡人になられるとは、朱雀院はきっと辛さを噛み締めておられることでしょう。このように始終手紙をよこすのを見て、心から仏道に励むことができずに惑うておられるのだと察せられます。
気の毒なことこの上なく、事の顛末(女三の宮の出家)にはさぞかし私を恨んでおられるだろう。
宮が書き損じた反古紙が几帳の下から覗くのを取り上げて見ると、
 
憂き世にはあらぬところのゆかしくて
       背く山路に思ひこそすれ
(俗世から離れたこの身には世に未練はありません。父君のようにお山に籠って仏道に邁進できれば、どれほどご加護が得られるでしょうか)
 とありました。
「私のことを許せぬのはわかりますが、何とも嫌われたものですね」
宮はただ俯くばかりでいらえもない。
そうして源氏はまた深い溜息を吐く。

薫はずいずいと這い回ると、筍に興味を持ったようで、それを掴むと無造作に投げたり、口に含んで齧ったりと無邪気ですが、衛生的ではないので女房達は慌てました。
「これこれ、とんだ男前であるなぁ。およしなさい」
源氏が筍を取り上げると、薫がぶう、っと頬を膨らませております。
「意地汚いと女房達に笑われるぞ」
「まぁ、早く筍を片付けましょう」
源氏は薫を抱き上げると周りの女房達に聞きました。
「この子は幼いというのに目元がはっきりしていて品があるとは思わないかね?」
「それはもう格別に品がおありですわ」
「きっと大した色男に成長するだろう。ここには明石の女御の姫宮たちもおいでになるので、不都合が起きないよう気を付けねば。この子がどんな若者に生い立つのかこの目で見届けたいが、私はそれまで生きていられるだろうか。先々が心配でならないよ」
溜息交じりの源氏の嘆きを薫の乳母や女房たちも悲しく聞いております。
「大殿さま、そんな縁起の悪いことは仰らないでください。いつまでも若々しい御身ですもの。どうか薫さまが立派に成人するまで見守ってあげてくださいまし」
「そればかりは何とも・・・。みな、どうか私に代わって薫をよろしく頼むよ」
源氏がことあるごとにこうして乳母や女房たちに心を配るのを、まこと父親らしい思し召しとしてみな神妙な面持ちで畏まるのでした。

それにしてもこうして密かに柏木の子が養われているというのを公にできないのが源氏には辛いところです。
この子は親の喪に服することも出来ず、致仕太政大臣と北の方はその血を受け継ぐ子がいることも知らぬのです。
女三の宮と柏木の不義はどうあっても世に漏らすことはできないのですが、薫に不孝の仏罰など下ってはあってはならぬこと、どうしたものか、と思い悩む君であります。
せめて柏木の追善をねんごろにさせることで、薫には何も無いようにと願う源氏は一周忌の供養として黄金百両を新たに寄進して世の人々を驚かせました。
致仕太政大臣もこれほど源氏が心を尽くしてくれることを殊更に恐縮され、息子が愛されていたことを誇らしく思うのですが、そうなるとさらにその死が悼まれるのでした。
致仕太政大臣はすっかりやつれて呆けた老人のようになってしまわれました。
昔は凛としていた伯父がそのように萎れるのを夕霧は悲しく思い、定期的にお見舞いしております。
それと同じように頻繁に一条の女二の宮を訪れています。
致仕太政大臣には同情から心を込めてお見舞いするのですが、女二の宮にたいしては仄かな恋心が見え隠れする夕霧なのでした。

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