見出し画像

紫がたり 令和源氏物語 第三百七十五話 柏木(五)

 柏木(五)
 
「ご出産なさってからどうも体調がおもわしくなく、寝付いておられるのです。お食事もお召し上がりになりませんので衰弱される一方でございます。どうか御父君から少しでも召し上がるよう仰ってください」
「きっと出産の辛さに気が弱くなられているに違いない。私の言葉が届けばよいのだが・・・」
そうして御簾越しに見る女三の宮は源氏が言うとおりにずいぶんと痩せ細っておられました。

「姫や、私に会いたいと聞いて、御仏に仕える身でありながら弁えずに来てしまったよ」
「お父さま、お会いしとうございました」
ほんの頭ばかりをこちらに向けて涙を浮かべられる娘が院には哀れでなりません。
「ちゃんと食事などせねば弱っていくのは必定であろう。母になったのだから気をしっかり持っておくれ」
「お父さま、わたくしのお願いを聞いてくださいませ。どうかこの折にわたくしを尼にしてくださいまし」
「何を言うのだ。その志は尊いものだが早まっては取り返しがつかぬのだぞ。後悔するようなことになれば世の誹りも受けかねまいよ」
源氏は宮が近頃頻繁に訴えられるのを聞いていたので今さら驚きませんでしたが、院はさぞかし驚かれたであろうと胸が痛みます。
「兄上、このように気弱くなられて出家のことばかりを仰るのです。私は物の怪がたぶらかしているのではと聞く耳を持たないのですが・・・」
そういって源氏が深く重い溜息をつく横顔を、院は鎮痛な面持ちで眺めておられます。娘可愛さに源氏にこの宮を無理に押し付けたのは間違いであったと悔やまれてならないのです。
「物の怪が悪しきことを薦めるならばいざ知らず、仏門に帰依することを薦めることはなかろう。宮のご寿命が儚いものであるのならば出家させてやるのが情けというものではなかろうか」
院の言葉に源氏はたじろぎました。

女三の宮を説得しなければこのまま尼になってしまわれるでしょう。
御簾の内に入り、宮の手を握ると懇願するように目を合わせました。
「宮、よくお考えください。今御出家されたら残された御子は如何なされるのです?まだ目も開かない幼子ですよ」
「あなたこそあの子を見もしない癖によくも心配する振りなどなさること。あなたに愛されぬ子をどうしてわたくしが愛せましょう」
源氏は言葉を失いました。
女三の宮がここまではっきりとご自分の気持ちを仰ったのは初めてのことだったからです。
そしてその言葉は奇しくも源氏に対する愛の告白とも思われました。
院はその宮の感情を露わにした言葉を聞いて、やはり御子は源氏の子ではあるまい、という確信を持ったのです。
この上は今ここで宮の御希望通りに髪を下して差し上げるのが親としての最後の務めであると、そう決心されました。
病気の為ゆえの出家であれば、世間には源氏の愛情薄いのを恨んでのこととは思われまい、憎しんで別れたということにもとられまいよ。
それは朱雀院が精いっぱい源氏を慮って出した結論なのでした。
「もうよい。この父が自ら髪を下しましょう」
「ありがとうございます。お父さま」

源氏が呆然とする間にも院は受戒の用意などをされて、六条院に控える祈祷をする僧の中でも高位の者を召しました。
無情にも出家の儀式は粛々と進められ、さすがに豊かな黒髪に剃刀をあてるのを一瞬躊躇われた院ですが、涙を流しながらばっさりと髪を削ぎ落とされました。
それから五戒を授けられるのもまるで悪夢を見ているようで、源氏は己の不甲斐なさに涙がこぼれました。
こうして女三の宮が世を捨てられ、院は御山に戻る際に源氏に深く頭を垂れました。
「源氏よ、すまなかった。私の勝手な願いではあるが、この上はせめて御子を頼む。それが私の最期の願いとなりましょう」
源氏はこの時、院が宮の御子の出生の秘密に気付かれておられるのだ、と悟りました。
誰よりもこの心優しい兄君には知られたくなかったものを。
「兄上、頭を上げてください。私の力が及ばずに申し訳ございません。御子は必ずや立派に養育しますので、心安く御山へお戻りください」 
そうして源氏は深々と額づくほどに低頭したのでした。
 
その耳元にはあの声が・・・。
「おほほほほ。とうとう女三の宮を尼にしてやった。御身を愛する女はみな不幸になればよい」
それはあの六条御息所に他なりません。
目の前が暗くなるようで、源氏は改めて宮を尼にしてしまったことが悔やまれてならないのでした。

源氏は御息所の執念を空怖ろしく感じ、紫の上や女三の宮にすまない気持ちでいっぱいになりました。思い起こせばあの夕顔や葵の上も御息所によって儚くなったものだと苦々しい気持ちが込み上げてくるのです。
亡くなった方の罪は赦して差し上げなければと己に言い聞かせますが、嫌悪感は拭えません。
それにしても生前は気位高く慎ましかったあの貴婦人はどうしてしまったというのでしょう。
源氏は別れた女のことをとやかく疎ましく考えるのは気が引けるのですが、あの重苦しい御息所の愛し方といい、関わりを持たなければよかったとつくづく思われてなりません。
亡き御方に対しては哀れを催す情もすでに損なわれ、安らかに眠られるよう祈る気さえ起こらないのです。
御息所の御心は永遠に源氏の愛を失い、御霊は煉獄の炎に焼かれることでしょう。
愛した男に真の愛をもってして涙を流されることで幾許か救われることもあるかもしれませんが、もうそのようなことはありえません。
こればかりは業としか言いようがなく、御息所が自ら招いた顛末でありましょう。
「なんと、あさましき者よ」
源氏が吐き出すように呟いた言葉は言霊となって御息所の御霊を打ち抜きました。

次のお話はこちら・・・


この記事が参加している募集

#古典がすき

4,049件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?