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紫がたり 令和源氏物語 第三百三話 藤裏葉(八)

 藤裏葉(八)
 
懸案だった夕霧が無事に身を固め、次は明石の姫が入内する番です。
その晴れの日は四月二十日過ぎということになりました。
近く葵祭りも開催されるので、紫の上は明石の姫とも最後の催しになろうと祭り見物に出かけることにしました。
姫が宮中にお仕えして後はなかなか会えることもなくなるでしょうから、楽しい思い出を作りたいと思う上なのです。
祭りの当日、まずは下賀茂神社と上賀茂神社、両社に参詣してからの祭り見物ということで朝早くから出掛けることになりました。
明石の姫は紫の上との外出が嬉しくてたまりません。
朝焼けの美しさも格別で、邸とは空気も違うのです。
「お母さま、きれいな空の色ですわねぇ。小鳥のさえずる声も清々しいですわ」
「そうね。よいお天気ですから、小鳥も喜んでいるのね。今日のお祭りはきっとたいした見物になるに違いないわ」
紫の上は微笑むと姫の手を取って優しく握ります。その手のぬくもりをずっと忘れぬように、と思うにつけても込み上げてくる涙をじっと堪えます。
「お母さま、どうなさいました?」
「いいえ、何でもないのよ。姫とのお出かけがうれしくて」
「また来年も一緒に見物いたしましょうよ」
「そうね、そうできたらいいわね」
入内するということがいまだ姫にはぴんとこないのでしょう。
東宮妃となればそうそう後宮から出ることはかなわないのです。しかし紫の上は姫がしっかりとやっていけるに違いないと信じております。まこと女御に相応しく立派に成長したものです。
「楽しい一日になりそうですわね」
「ええ、本当に」
この美しい母娘のまわりにはいつでも春の陽気のような温かい日差しが満ち満ちております。
女房たちもそのような御二方の尊いご様子が眩しく、お仕え出来ることを誇らしく感じております。
お参りを済ませ、身を浄めると、源氏が祭り見物のためにしつらえた桟敷へと向かいました。
ゆるゆると進む車の内で砂糖菓子などをつまみながら、女たちは嬌声をあげています。
 
大げさにしないようにと先触れなどはさせませんでしたが、高雅に二十輌もの車を連ねていく行列はどこの貴人の一行かと道行く人々は首を傾げました。
その威勢はまさに天下人のものとしか思われません。
大路はすでに見物人で賑わっておりましたが、紫の上の車が近づくと道が割れるように開かれていきます。
紫の上と明石の姫がしつらえられた桟敷へ着くと、色とりどりの女房たちの車が次々とつけられて、その壮観なこと。
「あれが源氏の太政大臣の北の方、紫の上さまのご一行だそうな」
人々は眩しそうに雲の上の天人を拝むように桟敷におられるであろう美しい方々を羨むのでした。
源氏は葵祭りというとあの昔の車争いを思い出さずにはいられません。
例の六条御息所と葵の上の従者たちの小競り合いです。
源氏は昔を懐かしく感じながら、あの時車をどかされプライドも打ち砕かれた御息所の御娘が今や中宮としてあり、その時源氏の北の方として権勢を誇っていた葵の上の息子である夕霧が一臣下であるのを時の移り変わりの残酷さを噛みしめておりました。
そうこうしているうちに数多の上達部が源氏のご機嫌伺いに入れ替わり立ち代わりやってきます。
源氏に従っていた夕霧はそのなかにいつかの五節の舞姫、藤典侍(惟光の娘)を見つけました。密かに想いを寄せていた娘なので、夕霧は見過ごすことができずに手紙を書きました。
 
何とかや今日の挿頭よかつ見つつ
   おぼめくまでもなりにけるかな
(今日は葵祭りですが、その挿頭である葵<あふひ=逢う日>を見ても思い出せなくなるほどあなたに会えずにいましたね)
 
藤典侍は夕霧が結婚したことを悲しんでおりましたが、このように忘れずに手紙をくれることを嬉しく思いました。
 
挿頭(かざ)してもかつ辿らるる草の名は
          桂を折りし人や知るらむ
(挿頭しながらも忘れてしまう草の名などとあなたほど博識の方がご存知ないわけがありませんでしょう。その草の名が思い出せないのはご結婚されたばかりだからでしょうに)
 
拗ねたようにちくりと返してくるところが可愛らしく心惹かれます。
夕霧は雲居雁と結婚したばかりだというのに胸がざわざわと騒ぐのを抑えられないのでした。

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