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紫がたり 令和源氏物語 第四百十七話 夕霧(二十)

 夕霧(二十)
 
花散里の君は夜更けて夕霧が来たのを知り、やはり気になっていたこともあるので、御前に呼びました。
「今日は寒うございますわねぇ。何か温かいものを用意させましょうか」
夕霧はこの花散里の君を母と慕っているので、こうした心遣いがありがたく、さきほどまでのささくれた心が温もり、癒されるように感じます。
「いえ、大丈夫です。お母さまこそ風邪など召されませんように」
「わたくしの心配をしてくださって、お優しいこと。ところで一条の宮を小野から御身がお移しになったと聞きましたが、どうやら致仕太政大臣などがお騒ぎになっているようですわね」
この人は悪意がまったくないので、こうしたことをずばりと聞いても嫌味にも聞こえなければ、詮索好きのような賤しさが微塵も感じられません。
夕霧も素直に心配されておられるのか、と心情を吐露してしまいます。
「世間には恰好の噂の的となっているようですね。女二の宮とのことはまぁ、あながち嘘ではありません。御息所も病に臥せられてからは私を宮の後見として認めて下さったわけですし、柏木との友誼もありましたのでお世話しているのですよ。しかし宮は思ったよりも御心が固くて、このまま尼になってしまいたいなどとおっしゃっているようです。私の思いがどうして通じぬものかと悩んでいたのですよ。この方面(恋愛)ばかりは父の忠告なども耳に入らず、思うままにならないことでございますね」
花散里の君は可愛がっている夕霧が心底宮を愛しているのだと感じたので、これ以上辛いことは言わないで差し上げようと決めました。
「そうでしたの。それにしても父君はご自分の華々しい恋愛遍歴を棚に上げて御身にご忠告なさるのが、おかしゅうございますわね」
「まったくその通りですよ。父上ほど世間を賑わした人はいないでしょうに。私などまだまだかわいいものです」
そうして可愛らしくむくれる夕霧は愛嬌もありながら男盛りの艶やかさで辺りが華やぐように思われます。
三条邸の姫(雲居雁)はこれまでこのような苦労がなかったのできっと心痛であろう、と花散里の君には思われましたが、夕霧がこうまで思い詰めているものをどうにもなるまい、とただただ気の毒に思うのでした。
 
陽が高くなり、夕霧はようやく三条邸に戻りましたが、雲居雁の姿が見えません。
どうやら宮との噂を聞いて拗ねているのだな、と思った夕霧は寝所で臥せっている妻の元を訪れました。
御帳台に入ると雲居雁は目を真っ赤に泣き腫らしております。
「浮気者は気安く側に寄らないで下さい。憎らしい。いつもあなたがわたくしのことを鬼、鬼というので、どうやったら本当の鬼になれるか考えておりましたものを」
「こんなかわいい人が鬼になれるでしょうかねぇ。たとい鬼になっても私はあなたを見捨てられませんよ」
悪びれもじない夫の誠意のなさに雲居雁は憤りを感じました。
「どうしてこんな人を夫としたのでしょう。長く連れ添ったその歳月も悔やまれますわ」
そうして恨まれても上気した頬がつやつやとして夕霧はやはりこの人をかわいいと思わずにはいられません。
「私をそんな薄情者のように言わないでくださいよ。これから先もずっと何も変わらずにあなたを愛してゆくのですから」
そうして雲居雁の傍らに横になる夕霧は昔のままのようで、その口から出る慰めの言葉は口先ばかりのものであるのがわかってしまうのが、二人が長く連れ添ってきたことの証でしょうか。
「いっそ尼になりとうございます。それともあなたを道連れに死んでしまおうかしら・・・」
「またそのようなことを。生きていてこそ楽しみがあるのですし、私たちは何も変わりませんよ」
夕霧はそうして妻を慰め続けますが、心裡ではやはり女二の宮を想わずにはいられないのです。
本当にこのまま宮こそ尼にでもなれば馬鹿を見るのは夕霧となりましょう。しばらくは腰を据えて一条邸に詰めなければと考えているのです。
日が暮れる頃、夕霧が香を焚き染めた上等な直衣を身に着け、念入りに化粧を施しているのを見た雲居雁は絶望で胸が塞がれる思いでした。
脱ぎ捨てられた直衣を手に取り、また涙を流しておりました。
 
なるる身をうらむるよりは松島の
     あまの衣にたちやかえまし
(この脱ぎ捨てられた直衣のように自分も捨てられてしまうのならば、いっそ尼の衣に着替えてしまおうか)
 
夕霧はそれを聞いて返しました。
 
松島の海士の濡衣なれぬとて
   脱ぎかへつてふ名を立ためやは
(私との生活が嫌になって尼になったという評判は立たない方が御身のためにもよいでしょう)
 
夕霧は心ここにあらずで読み捨てたので、なんと平凡でつまらない歌でありましょうか。雲居雁はそんな夫の態度も情けなく、この人はもう帰ってこないのだと強く感じたのです。
生真面目な者ほど歯車が狂いだすと元には戻らないと聞いたことはあるけれど、本当にその通りなのね。
雲居雁はいっそ消えてしまおうと考えるのでした。

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