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紫がたり 令和源氏物語 第四百三十七話 幻(六)

 幻(六)
 
源氏はそのまま明石の上の冬の御殿にまわりました。
久しく音沙汰もなく、突然のお越しに明石の上は驚きましたが、これ以上に嬉しいことはありません。
明石の上は薄紅を襲ねたものに濃紺の袿を纏っておりました。
その高雅な色合いがなんとよく似合うことか。
亡き紫の上は春の女神のように艶麗であったが、この方はまた違う高貴さを持つ人であったよ、と源氏は目が洗われるように感じました。
「しばらく訪れなかったのを恨んでいるかね?」
「いいえ。あなたの哀しみはよくわかりますもの」
嗜み深く、慎ましい、まさにこの人らしい思い遣りのある風情です。
「なんだかすべてが味気なく感じてしまってね。どうにもどこかへ出掛ける気力も失せてしまっていたのだよ」
心の弱き部分もすべて受け入れてくれそうで、源氏は素直に思うところを語りました。
明石の上は源氏がこれほど気弱くなっているのを目の当たりにして、紫の上との深い絆を思い知りましたが、それを妬むような気持ちが一切起こらないのが不思議なところ。
それはひとえに紫の上に対して感謝の念しか浮かんでこないからです。
実の娘でもない姫をあれほど慈しんで、中宮に相応しく育て上げてくれたことは生涯忘れない大きな恩となりました。
そして姫の側に従うのを許してくれた寛容さ。
姫の様子を見るにつけても、紫の上のしっかりした教育と愛情が姫を磨き上げたのだと感嘆せずにはいられないのです。
源氏の心に深く添う女人として当然であると自然に思われるのでした。
「いずれ御仏に仕える身になろうものならば、女人に執着するのは浅はかであると戒めてきた私ですが、どうにも情に流されやすい性質でね。あなたのことなども残して出家するとなれば心配でならず、ずるずると今日までみっともなく永らえてしまいましたよ」
明石の上はわたくしのことを引き合いに出して仰っているけれども、それは紫の上さまに他ならぬでしょう、とおかしく、そんな言い訳をする源氏が可愛らしく思えてなりません。
「わたくしなぞどれほど御身を引き留めることができましょうか。情の厚い方は特にあらゆるほだしが足を留めさせるものでございますわ。いっそ中宮の一の宮さまが東宮に冊立されるほどまで留まっていただければ、わたくしはこの上なく安心できましょうが」
そうして理知的にきらりと目を光らせるのはまこと明石の上らしいところであります。
「益々出家を先延ばしにしろと言うのかい?」
若々しく冗談めかして笑いますが、明石の上は源氏がそう遠くない日に出家するのだというのを決心しているのだと悟りました。
わたくしに挨拶に来てくださったのね、そう感じると寂しさが込み上げてくるのです。
源氏は夜が更けるまで昔の話などとりとめのないことを話しておりましたが、ついぞ泊まることもなくそのまま二条院へと戻りました。
翌朝届いた文にはこのようにしたためられておりました。
 
なくなくも帰りにしかな仮の世は
    いづこもつひの常世ならぬに
(雁という鳥は常世を目指して飛ぶ鳥と聞きましたが、仮の世はどこでも無常であるというのを思い知り、泣く泣く帰ってきたのです)
 
明石の上は源氏を恨む気にはなれませんでした。
 
雁がゐし苗代水の絶えしより
    うつりし花の影をだに見ず
(雁がいた苗代水<紫の上>がなくなったことで、花の影も見えなくなったというのが道理です。恨むことなど致しませんわ)
 
変わらずの雅やかな手跡と詠みぶりが源氏の心に沁み渡る。
紫の上といい、明石の上といい、まこと見事な女人に恵まれたものだ、と源氏はしみじみと感慨に耽りました。

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