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紫がたり 令和源氏物語 第六十話 葵(三)

 葵(三)

四月になると賀茂祭(葵祭)が行われます。
この年は女三の宮の初斎院ということもあり、大きな催しとなります。
斎院が賀茂の原にて御禊(ごけい=身を清めること)される折には名のある公達が共に加わるようにと帝から直々の命が下され、源氏も従うこととなりました。
左大臣邸でも話題は祭のことでもちきりで、女房達は見物に出かけることがうれしくてはしゃいでおります。
葵の上は身重なうえに悪阻(つわり)もひどく、気怠そうにしておりましたが、
「御方さま、下々のものまで世に名高い光る君の御姿を拝めるとあって祭り見物にでかけるという噂ですのに、北の方である御方さまが参らないというのはいけませんわ」
葵の上の母君・大宮(桐壺院の妹)も、
「今日は御身のお加減もよろしいようですし、女房達もあなたが行かないのでは味気ないと言っておりますよ。源氏の君の立派なご様子をご覧になって気晴らしでもなさいませ」
そのように勧められるので、葵の上も、これも正妻の勤めかと、矜恃を奮い立たせるように、出かけることにしました。

日はもう中天に差し掛かっています。
源氏の君の行列には間に合いましたが、例年にない人出で大路は混雑しておりました。
どこか適当な場所に車をとめて行列を見物したいものですが、他の車をどかさなければ落ち着けそうにありません。
左大臣の車ということで身分の低いものは場所をずれたり、どいたりと徐々に場所が空いてきましたが、その中に一つ車を動かさないものがありました。
新しくはありませんが、趣ある御簾を引き下ろした網代車で、のぞく襲(かさね)の色も品のいいものでしたが、どうやらお忍びのご様子です。
その車についていた下人は、
「この車をそこいらの者と同等に扱うのは許さんぞ」
鼻息荒く、意地でもどかないつもりです。
誰あろうこの車に乗っていた貴人こそ、かの六条御息所その人なのでした。
「何をこしゃくな。こちらは左大臣家の姫君、源氏の君の北の方であるぞ」
左大臣邸の下人も負けじ、と応酬します。
こうした雑色と呼ばれる使用人は、気の荒いものが多く、小競り合いなどはよくあることなのですが、正妻と愛人が鉢合わせてしまってはただで済むはずがありません。
左大臣邸側には源氏の従者もいたため、自然とあちらの使用人の面々を見ると、忍んでいるのが御息所であるというのが知れてしまい、葵の上の従者のなかには、
「愛人風情が」
などと、悪態をつく者もあります。
葵の上はこの騒動を早く収めたいと思ったものの、「おやめなさい」という女主人のか細い声はものならぬ雑音に掻き消されて、下人達は御息所の車を後ろへ追いやってしまいました。
御息所は左大臣邸の女房達の車よりも後ろへ退かされ、車も所々破損されたのが悔しく、何より自分と知られ蔑まれたことが腹立たしくてなりませんでした。
見物をやめて帰ろうにも、前後左右に他の車がびっしりと停まっているので、身動きひとつできません。
そのうちに行列が近づいてきて馬に乗った源氏の君が前を通りかかりました。
左大臣家の車に気付くとこぼれるような笑みを向けて、正妻・葵の上を気遣っているようです。
遠目にも美しいその御姿は目を洗われるようでしたが、自分の存在も知らずに通り過ぎていくのが悲しく、御息所は己が情けなくて涙をこぼしました。
 
影をのみみたらし川のつれなきに
    身の憂きほどぞいとど知らるる
(源氏の君のお姿をひっそりと知られぬようにと参りましたが、やはり自分の存在さえ知られずにあるのは辛いこと。君の冷淡さが恨めしい)

葵の上は、先の春宮后であられた御方を辱めるような無礼を働いてしまった、と己れの至らなさに苛まれておりました。下人の不始末はおしなべて主人の落度なのです。世間にどう思われても、奢っているとしか思われない結末に、暗澹たる心持ちで床に臥せってしまいました。

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