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紫がたり 令和源氏物語 第三百五十七話 若菜・下(二十三)

 若菜・下(二十三)
 
それは四月の十日も過ぎた頃でしょうか。
賀茂祭りが近づき、斎院の御禊の儀式を翌日に控えておりましたので、六条院から斎院方へ手伝いの女房を大勢派遣させておりました。
ただでさえ女人ばかりで不用心でありますが、何か月もこの生活に慣れてきたことでみな殿方の目の無い気楽さに油断しております。
若い女房や女童は見物の衣装などを縫っていて局に籠り、宮の御前にいつも控える按察使の君には夫が通ってきていたことから局に下がり、小侍従ただ一人となったのです。
小侍従はさっそく柏木へ手紙を書き、夜が更けるのを待ちました。

柏木は待ちわびた知らせに飛び上がらんばかりの浮かれようです。
自慢の薫衣香を染み込ませた闇にまぎれるような濃い色の直衣を纏い、念入りに身繕いすると人目につかぬように出掛けました。
月は隠れて深更の闇夜にはごとごとと車の音だけが響くなか、柏木は宮の可憐な姿を思い浮かべながら、宮が自分の言葉に心動かされて身を任せることを夢想します。
それを思うだけでどんな罪咎も厭わないという勇気が湧いてくるのでした。
柏木が六条院に着いた頃には辺りはほんの少しの先も見えないほどの暗闇で、女三の宮はすでに寝所で寝息をたてておりました。
小侍従はどうして宮の御帳台のすぐ側まで柏木を許したのか、その姿を見ればどのような堅固な理性を持ちあわせていても崩壊してしまうであろうに。
人に知られぬようにということばかりで宮のことを考えられない浅薄さがなんとも迂闊であるものよ。
うっすらと灯る火にほのかに浮かび上がる無邪気な美しい寝顔を柏木は見てしまいました。
尊い姫宮は近づくことも憚られるほど畏れ多いオーラを放っているかと思いきや、華奢で気安そうなご様子なのが柏木を大胆にさせたのでしょう。宮を抱き上げて浜床の下に降ろしました。
まどろんでおられた宮は何者かに抱き上げられたことに驚きました。
一瞬源氏かと思いましたが、嗅いだことのない薫りに戦慄します。
気を強く持ってその人を見ると若い男なのでした。
どうしてこんなところまで男が入り込んだのか。
宮は恐ろしさにぶるぶる震えて顔面蒼白、脂汗が額に滲み、助けを呼ぼうにも声が出ないのです。
男は俯きながら控えて何事かぼそぼそと呟いておりました。
春の夕暮れ、猫、御簾、そのくらいしか聞き取れませんでしたが、宮はこの男が柏木右衛門の督であることを悟りました。
 
自分に何が起きているのか。
どうなるのであろう?
不安にかられて相手の話を聞く余裕もなく、非礼を詰ることもできません。
ましてやこの宮に恋の妄執に憑かれた男をうまくあしらうという才覚などありましょうか。
袖で顔を隠すことも忘れて、ただ恐れおののいているばかりです。
「驚かれるのももっともですが、人妻だからといってこの恋心がおさまるものではありません。ただ私の気持ちを知っていただきたくてここまで来たのです。どうか哀れと思って下さるならばそのように仰って下さい。それでお暇致しますから」
などと柏木は訴えますが、ただ目の前からこの男が消えてほしいと願っている宮には返事をする余裕なぞありません。
その困ったような顔がまた愛らしく、柏木はとうとう理性を失ってしまいました。

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