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令和源氏物語 宇治の恋華 第四十四話

 第四十四話 恋車(六)
 
薫が宇治を去った後、大君は思い乱れるように塞ぎこんでおりました。
君が来られるのを誰よりも待ちわびていたものを、その心を知り、大きく動揺したというのが本心なのです。
薫君のような御方を慕わぬ女人がおりましょうか。
胸の鼓動がどきどきとこれまでに感じたことのないような高揚感に包まれて、頭がぼうっとなり、ひとときは世間の目や矜持を忘れてただ嬉しくありましたが、当代一と言われる尊い君と結婚などと大それたことのように思われて心は萎んでゆくばかり。
大君は一人になってそっと鏡に映る自分の姿を見つめました。
数年前までは春の盛りのようにあったものを今は痩せて目は以前よりもくぼみ、肌はたるんだように思われます。
あれほど豊かであった髪も少なくなって先も細りました。
女としては老いてゆく一方であるこの姿を薫君に見られるのは恥ずかしく、捨てられるようなことになればこれほど惨めなことはありません。
大君は何よりもそのことを恐れているのです。
この年になるまで恋を知らず、男女の愛というものを意識せずに生きてきた乙女には、人が愛し合うということはその姿ばかりが重要ではない、心を通じて絆を結ぶという愛の本質に気付くことが出来ないのです。
大君は己の裡に芽生えた恋心に目を塞ごうと煩悶するのでした。
「お姉さま、何かあったのですか?」
中君は姉が部屋に籠ってなにやら考え込んでいるのが心配でなりませんでした。
父宮が亡くなられてから心労も多く、姉が日増しに痩せ細ってゆくのを中君は知っております。
薫君からの手紙やその訪れに顔を明るくする姉を見て、もしやお慕いしているのでは、と密かに考えておりました。
先刻までは薫君の訪れを喜んでいたものを今はうって変わって塞ぎこんでいるのがどうした由ゆえか気になって仕方がありません。
身を起こした姉姫は涙に濡れて苦しそうでした。
「どうなさったの?」
「何でもないのよ」
大君は無理に取り繕いますが、尋常な様子ではありません。
「薫さまと何かあったのですか?」
労わるように姉の手を握るとひんやりとしております。
「なんて冷たい手。すぐに炭を持たせましょう」
中君は姉の手をさすって温めてくれました。
その素直で優しい気性、眩いばかりに美しい姿に大君は目を細めます。
もしも父宮の遺言をもって薫君がこの中君を娶ってくれたならばこれほどよいことはないでしょう。
 
あの君ならば信じられる、中君を託すならば薫さまに。
 
そうと考えつくと大君にはもうそれしか考えられないのでした。
しかしなんと浅はかなことでしょうか。
人の心というものは変えられるものではありません。
大君の薫君を想う心とてどのように目を塞いでも消えるものではないのです。
無理に捻じ曲げようとすればするほどに恋心は募り、自身を蝕んでゆくことを大君は知らないのでした。

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