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紫がたり 令和源氏物語 第十話 帚木(六)

 帚木(六)

藤壺の宮のしっとりとした柔らかい手はその昔に触れた時と変わらずに温かいものでした。源氏はうつつと確かめたくて、その手のひらに口づけをして頬を擦りよせました。
宮はそれに応えられるように愛しそうに源氏の輪郭をなぞり、そっと額に口づけをされました。
「宮、内裏で初めてお会いした日のことを覚えておいででしょうか?私はあの時からずっとあなたを慕い続けておりました」
源氏の涙が宮の白い肌にはたはたと零れ、月明かりできらきらと流れていくのを宮はせつなくご覧になり、優しく源氏の涙を拭いました。
「光る君・・・」
どのような女人でもこの稀なる君を拒むことはできません。
「何か仰ってください。無理やりにあなたを奪ったこの私を恨むお言葉さえも、あなたがくださるならば甘んじて受けます」
「ああ、何と罪深いのでしょう。わたくしは今うれしくて。わたくしもいつしか姉としてではなくあなたを愛していたからです」
宮の告白に源氏は嬉しさで身が震えるようでした。
そして、確かめるように再び宮の細い体を抱きしめました。
宮のせつない声、しっとりと汗ばんだ肌の薫りは芳しく、まるで夢を見ているような心地です。
もう二度と離れることはできまい、このまま時が永遠に止まってしまえばと願わずにはいられません。

「光る君、わたくしたちは許されない罪に堕ちてしまいました」
「二人で共に堕ちる罪ならばこれほど甘美な夢はないでしょう」
「ああ、でも・・・」
両手で顔を覆い、煩悶する宮の姿が匂うように悩ましく、源氏はまた宮を抱きしめずにはいられません。
「私が想うほどに宮は私を愛してはくださっていないのですね」
少し拗ねたような口調が魅力的で、宮は溜息をつきました。
「わたくしが自由にあなたを愛せる身であれば、どれほどよかったことでしょう。わたくしはあなたのまわりにいる女人たちが羨ましい。何の咎もなくあなたを愛せるのですから」
これは宮の精一杯の告白にほかなりません。源氏はあまりにもせつなくて宮の髪に接吻しました。

やはり宮は思った通りに素晴らしい。
この方以上の女人などこの世にはありはしない。

尊いご身分であるにもかかわらず、飾らずに本心をさらけだすところなど、可愛く思われてさらに愛おしさが増すばかりです。
長年の想いが実った感動のあまり、源氏の涙は尽きることを知らないように縷々と溢れるのです。

ああ、恋人たちの夜はなんと短いことか。
はや鶏の鳴き声が聞こえてきます。
「またお会いできるのでしょうか」
囁くように絞り出した源氏に、
「もうお会いすることはないでしょう」
宮はそう寂しく微笑まれました。
いつしか雲は消え、有明の白い月の光にぼんやりと浮かぶ宮の姿は美しく、月の精霊のように儚く思われました。
触れればそのまま消えてしまいそうで、源氏の胸は苦しくなるのです。

人の心というものは、一度お逢いできればもう悔いはない、と覚悟を決めていたものの、逢えばもう一度逢いたくなるという無明の闇を抱えているのです。

あの方さえ得られれば私はどうなってもかまわない。

源氏の情熱は愛執となってその身を焦がします。
新たな懊悩に甘美な苦しみをおぼえつつ、源氏は明けてゆく小路に一人佇むのでした。

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