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紫がたり 令和源氏物語 第二百二十三話 初音(三)

初音(三)
 
「御方さま、殿は遅うございますね」
夜も更けて、春の御殿で紫の上の側近く少将の君はあきらかに顔を曇らせておりました。誰よりも紫の上を思う、忠臣・少将の君(かつての女童・犬君)は今にも喧嘩腰で飛び出して行きそうな勢いです。
元旦のその宵に源氏が紫の上と一緒でなかったことなど、あの須磨・明石と離ればなれになった時以外にはなかったからです。
「殿のことですから、ふいに風流心を起こされたのでしょう。みなもう休みなさい。わたくしも休むと致しましょう」
紫の上がこのように静かに笑むので、女房たちは何も言いませんでしたが、心裡では分を弁えぬ者がいるよ、と面白くありませんでした。
紫の上は源氏が明石の上の元に渡られているのであろう、と灯を落とした後もなかなか眠ることはできませんでしたが、この身に何ができようかと諦めております。
今朝には共に千歳まで、と言祝いだ君は別の女にも同じ約束をするのです。
 
わたくしという存在はそれだけのもの。
あの方が共に過ごしたい御方は別にいるのだわ。
 
そう少女時代から感じてきた紫の上には明石の上でさえ仮初の妻にすぎないのだ、と憐憫の情を覚えずにはいられないのでした。
 
 
翌朝、源氏は不意に現実に引き戻されたのでしょうか。
夜も明けきらぬうちに春の御殿へと戻りました。
冬の御殿の明石の上や側付きの女房たちは何も今さらこのような時間に帰られなくてもと思い、春の御殿の女房たちは今頃戻られても上がまだお休みなのに間が悪い、とどちらにとってもばつの悪い感じです。しっかり下ろした格子を急かされて開くのも女房達には迷惑なことなのでした。
「あちらでつい寝入ってしまったよ。もう若くないのだから誰か起こしてくれればよいものを」
などと源氏が言い訳するのも見苦しく、紫の上が聞かない振りをしていると、さらに後ろめたい意識があるのでしょう、紫の上が機嫌を損ねて返事をしないものだと思い込んでいるようです。
臍を曲げた源氏は陽が高くなるまで寝所で眠ったふうを装っておりました。
まったくいつまでたっても子供のようなことをなさる。
どれほどわたくしのことを気にしているアピールをすれば気が済むものか。
はっきり言ってこんな男はうざったい以外にはないのですが、それは紫の上の心裡の呟き。
 
紫の上は何も言わずに昼の御座所へと移り、正妻らしく年賀の客人をもてなす采配を整えました。
正月二日、三日というのは大臣である源氏に新年の挨拶に伺候する殿上人で邸がごった返します。
これ幸いと源氏は紫の上と顔を合わせずにすむと深更まで宴を開こうと考えるのでしたが、紫の上もこれ幸いと源氏の顔を見たくはないのだということにお気づきで無いのが痛々しいところです。
 
六条院で迎える初めての年ではありますが、今年の客人が前年よりも格別に多いのは、どうやら源氏の目論見通り玉鬘姫を目当てに源氏のご機嫌伺いに訪れた若者が増えたからでしょう。
みなそわそわと落ち着かず、源氏に自分の秀でている姿を見せようと懸命です。
まるで着飾った雄鳥が求愛のダンスを踊るような滑稽さで、そんな若者たちの様子を源氏は眺めて楽しんでいるのです。
夕暮になると管弦の遊びが始まり、新春を祝う歌が邸内に響きわたります。
気の利いた若者が催馬楽(さいばら=古歌を雅楽風にアレンジしたもの)の「此の殿」を華やかに唄い始めました。
 
この殿は むべも むべも富けり
さき草の あはれ さき草の はれ
さき草の 三つば 四つばのなかに
殿造りせりや 殿造りせりや
 
源氏の御殿のめでたさを讃えてのものでしょう。
この宵の酒はことに美味しく感じられる源氏の大臣は、紫の上の心裡など知らず、心地よい酔いに身を任せているのでした。

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