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紫がたり 令和源氏物語 第三百七十八話 柏木(八)

 柏木(八)
 
柏木にはもう起き上がって夕霧を迎える力も残っておりません。
それでも秘められた我が子のことを思うと、源氏に許しを乞いたい、その為ならば今一度力を振り絞ろうと人の手を借りながら見苦しくないよう冠をつけて体裁を整えました。
夕霧は横たわったままの柏木の姿が悲しくて目を潤ませております。
「夕霧よ、実は話したいことがあるのだ。見苦しい姿を晒すのは心苦しいが、御簾の内に入ってくれないか」
「もちろんだとも」
柏木はすっかり痩せて、青白い顔には死の影が滲んでおります。
「どうしてこのようになってしまったのか、柏木よ。しかし今日はお顔の色が幾分か良いかな。やはり大納言になられたというのは支えになっているのだね?あなたはいずれ大臣になる人なのだから、そう気を確かにしてもっと元気になってくださいよ」
柏木は弱々しく笑いました。
「気休めはよい。それよりも今となっては悔いを残したくはないことがある。実は君の父君のことで・・・」
そう柏木が横たわったまま身を乗り出そうとするので、夕霧はその手に触れました。
ひんやりと冷たく、もうこの身体からは魂までもが抜け出ようというものか。
しかし、はて父・源氏のこととはなんであろう?
「源氏の院には幼い頃から可愛がっていただいて、ことあるごとの催しにも招かれ、格別に引き立てて下さった。そんな大恩ある君との間に些か行き違いがあってね、私はお詫びしたいと常々考えていたのだ」
「父との間に何があったというのだい?」
「いやなにそれを明かすのは具合がよろしくないが、院が私を赦してくださらないのはこの間の試楽の折によくわかったのだ。私はあまりにも未熟で近頃の威勢がよいのを調子に乗って傲慢になっていた。そしてそんな振る舞いが院の逆鱗に触れることになったのだ。院はあの通り御心を明かさない方なので私もそれとは気付かなかったが、あの時に院がお怒りなのを知ったのだよ。あれだけ可愛がっていただいたのに申し訳ない。どうか何かの折にでも柏木が心から詫びていた、と院に伝えてはくれないか」
「私は君が心から詫びていた、とそう伝えればよいのだね」
「頼む、君にしか託せぬ願いなのだ。そしてもしも私が儚く身罷ったならば、父や母、そして女二の宮を私の代わりに気遣ってくれたまえ」
柏木は夕霧の手をあらんかぎりの力で握りましたが、そのあまりの微弱さに夕霧はまた涙をこぼします。
そうして柏木は力尽きたように目を閉じました。
柏木の命はもう長くあるまい、その最期の願いが父・源氏に対する謝罪だとは。
もしや柏木は女三の宮と密かに通じていたのではあるまいか、そう夕霧には思いあたりますが、あれほど沈着冷静で倫理を重んじた柏木が道を踏み外したとは考えられないのです。
しかしながらそれが真実ならば女三の宮の突然の出家にも説明がつくというもの。
死の淵に立たされた紫の上の懇願であっても出家を許さなかった源氏がそれほど重篤とも思われぬ女三の宮の出家は容認したというのが、どうにも合点がいかず引っかかっていた夕霧なのです。
世間は納得しても夕霧は違和感を禁じ得なかったのでした。
柏木は己の良心の為に病んで命を削ったのか、と夕霧はその不憫さにまた涙を流しました。
 
そうして数日後、柏木はそれほど苦しむこともなく息を引き取ったのです。

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