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紫がたり 令和源氏物語 第三百九十九話 夕霧(二)

 夕霧(二)
 
近頃一条御息所のお加減が悪いということで、宮ともども小野あたりにある山荘にお移りになるという噂を夕霧は耳にしました。
御息所は物の怪に患わされているということです。
なんでも物の怪調伏で高名な律師が山籠もりをしており、里には下りぬと誓いを立てられていたのを特別の計らいで麓近くまでお越しいただき調伏をお願いするということなのでした。
夕霧は御息所の為に新しい御車をあつらえさせ、先駆のお供や隋人を多く遣わして道々難儀しないよう何事も整えて差し上げました。
そして僧への布施や浄衣なども充分に心つけられました。
そうした気配りがやはり御息所にはありがたく、いっそ宮の背となっていただきたいと内心では思うものの、それを口には出せぬのです。
宮にお仕えする女房たちもできることならば大将の君のような頼りがいのある夫がおられれば自分たちも路頭に迷うことはない、とどうにも願わずにはいられないようです。
大将への心遣いに差し上げるお返事も本来ならば御息所が書くべきですが、お加減がよろしくありません。そうかと言って女房の代筆などでは失礼にあたりましょう。女二の宮はとうとう御自筆のお手紙を遣いの者に託したのです。
ほんの一行ばかりではありますが、その墨付きの濃く薄く柔らかい美しい手跡に夕霧はいたく感銘を受けました。
優しい御心遣いに嗜みの深さが窺われ、ほんのりと薫る香がまたえもいわれぬほど上品で、いよいよお目にかかりたいと心惹かれてゆく大将の君なのです。
妻の雲居雁は夕霧がその手紙を恭しく扱うのを盗み見ると、ただの消息ではあるまい、例の女二の宮からのものであろうと推察されて、心裡が波立つのを抑えられません。
もう夫の心は自分を顧みることはないのかと暗い表情をしているもので、さすがの夕霧もなかなか小野の山荘を訪ねるのは憚られるのでした。
それでも時が経つとその心が益々抑えられなくなるのが恋というものなのでしょうか。
 
八月の二十日過ぎともなると秋の気配が濃くなりました。
野辺においてはさぞかし風情を増していることであろう。
もしやそうした趣深いところにあっては宮の御心も大きく揺さぶられるのではあるまいか。
そう思うと夕霧の心はもう歯止めが利かぬほどに逸るのです。
考えあぐねた末に雲居雁に言いました。
「何某の律師が御山から下られているので、これからのことなど相談せねば。あちらに御息所が長く滞在されるのであれば、それなりに住まいも整えねばなるまい」
 
なんと狡猾な夕霧でしょうか。
あくまで御息所を慮っているように見せて、さらに終の住処のように言われれば、宮もこちらには戻っては来ないような口ぶりではありませんか。
雲居雁は夫の言うとおりであればよい、と健気に己を励ましながら、夕霧を送り出すことにしました。
それを方便だとは知りつつも、一縷の望みを懸けているのでした。

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