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令和源氏物語 宇治の恋華 第三十一話

 第三十一話 会うは別れ(一)
 
年が明けて祝いも盛大に恙なく迎えられた新年にますます国家泰平の機運が高まりますが、匂宮の心はそんな和やかな雰囲気にも関心なく、ただただ一直線に宇治へと寄せられておりました。
いつぞや薫が漏らした宇治の姫君たちの様子に心惹かれてどうにも落ち着かないのです。
それは昨秋のこと。
薫の方から訪ねてきたのをおや、と珍しく思った匂宮でしたが、いつもの退屈虫に憑かれていた身としてはこれほどありがたいことはありません。
「薫よ、よく来たなぁ。これでしばらくは退屈の虫が去(い)んでやるというものよ」
「君の虫は結婚でもすれば収まるのではないかね?」
「退屈虫が結婚なんぞでどこかにゆくものか」
「そんなことはない。北の方を迎えて朝夕の情趣を語るというのもよいものだと思うぞ。そうすればもうひとつの浮気の虫も収まろうよ」
「男が浮気をしなくなっては終わりだろう」
そこで男たちは声を立てて笑い合いました。
「それにしても今日は機嫌がよいな、薫」
「宮に自慢をしに来たんですよ」
「なんだ?勿体ぶらずにはやく言えよ」
「さて、どうしましょうかねぇ」
そのように明後日の方角に目をやる薫の心は宇治へと飛んでいるのです。
月明かりの元で垣間見たあの美しい姉妹の姿を想いながら。
「実は鄙びた所に隠れ住む美女を見ましたもので・・・」
匂宮は薫の言わんとすることが察せられたので、期待もせずに胡坐をかきました。
「あの宇治の姫君たちのことだろう?」
「はい。・・・とんでもない美女の姉妹でした」
「ほんとか?」
「ええ。いつぞや宮さまが気にしておいでであった更衣の女房など去んで消えるほどですよ」
「なんだ、関心のなさそうな顔をして例の女房もしっかり確認済みかよ。ま、それはよしとして詳しく話せ」
匂宮が誘われて身を乗り出すもので、薫はいつにもなく抒情的に語りだしました。
「十六夜の明るい月の元、私はしばらくぶりの宮さまのとの対面を楽しみに宇治の山荘へ向かっておりました。すると近づくごとに遠くうっすらと楽の音が聞こえてきたのですよ。宇治特有の川霧がたちこめて、なんとも異界に迷い込んだような妙なる調べに私は酔ったのかもしれません。その琵琶と筝のまつわる艶やかさにすっかり魅せられてしまいました。はて八の宮さまは名人と聞きますが、その手はどこか斬新な響きなのを下人に尋ねると姫君たちだというではありませんか。私は姿を見られずに楽を聞ける庭先の透垣に身を潜めたのでございます。尼君とばかりに思うていた方々の華やかな演奏に思わず隙間から覗き見たのでございます。ちょうど雲の切れ間で月が辺りを照らした時のことでした。艶々と長い黒髪がさらさらと妹姫は琵琶の撥で月を招き返したと無邪気に笑うておりました。その姿がなんとも可憐で。それに応える姉姫は落ち着いた風情の優しげな様子で、押し寄せる恍惚に時が止まったように思われました。あまりにこの世のものとは考えられず、私はどうやら橋姫たちの宴を垣間見たような気持ちになりましたとも」
それはもちろん匂宮の関心を惹こうという薫の語り口でしたが、自身がまことそのように魅せられたことに気付いてはいないのです。
誰よりも薫の傍にいる宮は薫のこの抑えようとしても自然に昂ぶる感情を察しているのでした。
それからというもの、宮はどうにも宇治の姫君たちが心に懸かるのです。
親王という重い身分にありますと、薫がしたように宇治くんだりまで忍んで出掛けて透垣に身を潜め美女を垣間見るなどという経験は勿論なく、そうした振る舞いは身分上許されぬもの。
薫が羨ましくて仕方がない宮なのです。
 
一月の末、宮は薫を呼びつけると初瀬詣でに発つと告げました。
「あなたが信心深く初瀬の観音さまへお参りですって?」
薫は開口一番そう述べると声をたてて笑いました。
「笑いすぎだぞ、薫」
「女の為なら御仏も口実にする君に呆れているのだよ」
「そうでもしなければ都からは出られまいよ。母上(明石の中宮)が近頃口うるさくて忍び歩きもままならないのだ」
「それはこれまでの所業が御身に返ってきているのだから、自業自得というものさ」
「それだけではない。お前の兄上・夕霧の左大臣が六の姫を私にと働きかけているらしいのだ。それで母上は身を慎むようにとやかましい・・・」
「六の姫は藤典侍腹の姫だな。とても美人だというではないか。いっそ結婚しては如何か?」
「姫を娶るだけなら悪くない話だが、漏れなくあの口うるさい左大臣という舅がついてくるのだぞ。通うのに少しでも間が空けばすぐに苦情の雨嵐だろう。まっぴらご免というものだ。それよりも人里離れたところで美女を囲うというほうがそそられるではないか」
宇治の姫君たちに目を向けさせたのは薫ですが、匂宮はあくまで恋の冒険のようにしか捉えていないのが残念に思われます。
「八の宮さまは私の大事なお師匠さまなのだぞ。その姫君を軽々しい恋のお相手のように言うのはやめてくれたまえ。生涯を誓うという心持ちならば間を取り持ってもよいがね」
「また真面目ぶって。まずは出会うことが肝要であろう。宇治へ向かったからとてすぐに姫に逢えるわけではあるまいに。ともかく宇治の左大臣の邸が使えるよう差配を頼む。御仏が結ぶ縁であるならば私にも生涯の伴侶を得る良縁になるかもしれぬではないか」
宮の言うことも尤もなことで、宮の遊行の隋人には数多の公達が従うことですから、そうそう気軽に姫君と逢うことはできないでしょう。
薫は匂宮を慕いよい友だと思っておりますが、女人に対してのお気軽な姿勢には理解しかねるところがあるのです。
あのように身も心も軽くあればどれほど救われたであろうか。
自身は念願の出家がなかなかできそうにない立場ですので、もしも伴侶を得るならば自分を曝け出せるような、すべてを分かち合えるような女人でなければ、とつい考えてしまうのです。
しかし薫の出生の秘密などはそうそう打ち明けるわけにもゆかず、思慮深く思い遣りのある人でなければ薫を受け止めることはできないでしょう。
そのような女人がこの世にいるものか、と諦めてしまうところですが、もしやどこかに赤い糸に結ばれた相手がいるのであれば、心を清く保っておればいつしか御仏が巡り合わせてくださるかもしれぬ、と身を慎んでいるのです。
そんな薫には宮の奔放な恋愛遍歴がどうした心の働きによるものか理解できないのです。
かねてから宮が時折漏らしていたことですが、本当に「運命の相手」を見つけるが為に心の赴くままに女人と逢っているのか、とふと感じることもあるのですが、敬愛する八の宮さまの姫君とそうした感覚で逢われてはたまらないところです。
匂宮の本意を確かめねば事は進められまい、と薫はさらに慎重になるのでした。

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