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紫がたり 令和源氏物語 第四百四十五話 幻(十四)

 幻(十四)
 
十一月に入り、源氏は惟光を呼び寄せました。
惟光といえば源氏の乳兄弟であり、頼れる側近。
源氏の恋愛遍歴を傍らでつぶさに把握した人物でもあります。
須磨・明石を流離い苦楽を共にした間柄ですが、惟光の娘の藤典侍が夕霧の側室として子をもうけたので、この乳兄弟との縁はさらに強く結ばれておりました。
しかし近頃では惟光も出世し宰相として活躍しているもので、以前のようにちょっとした用事で呼び出されることは無くなっていたのです。

惟光は世間から距離を置いている源氏が直々に呼んでくれたのを嬉しく思い、昔に返ったように足取り軽く二条院に参上しました。
「惟光よ、よく来てくれた。忙しい身であるのにすまぬな」
そうして微笑む源氏の姿はとても五十を過ぎたとは思えぬほどに若々しく、惟光はさすが神仏の御加護の篤い御方は違う、と主人が誇らしく思われました。
「殿の為ならばこの惟光、いつでもはせ参じますれば」
そうして頭をすりつけんばかりに叩頭するのを源氏は苦笑して宥めます。
「そのような堅苦しい挨拶はいかんぞ。お前と私はお爺同士ではないか」
「そういうわけにも参りません。殿はいつまでも私の主人でございます」
なんとも律儀なものであるよ、と源氏は変わらずに忠誠を尽くす惟光に信頼を寄せずにはいられません。
「今日来てもらったのには頼みがあってな。私の所領や財産などを昔から細かく把握していたのはお前しかおらぬ。地方から上がってきたものなどみなこまごましているだろう。それを整理して然るべき者たちに分けたいのだ。面倒とは思うが私の最後の頼みとして引き受けてはくれぬか?」
「もちろんお引き受けいたしますが、それはもしや・・・」
「うむ、来年の春には出家しようと思う」
惟光はいつかはこの日が来ると考えていたものの、やはりそれは悲しいもので、いっそこの君に従って自分も世を捨てようかと逡巡します。
その顔色を読んだ源氏は優しい笑みを浮かべて惟光に語りかけました。
「これが最後の頼みだと言ったはずだぞ、惟光。お前には守るべき家族があろう。私への忠義はもう充分だ。己の人生をまっとうせよ」
「はい」
この君がそうと決めたからには意志を覆すことはないでしょう。
惟光は幼少の頃からお仕えしてきたもので、寂しくてなりませんでしたが、互いに五十を超えた者同士、とうとう別れの時が来たのだと思うとそれもまた詮無きことかと涙を呑みます。
「殿の思し召し通りに致しましょう」
長年頼りにしてきた者なので、みなまで言わずとも心は通じ合うものです。それに共に先はそれほど長くはないでしょうから、いつの世かでまた会えることもあろう、と男たちは無言のうちに頷き合いました。
「惟光、お前にも何か与えたい。何でも好きなものを選んでほしい」
源氏は実はまずこの惟光になんでも望むものを与えようと邸へ呼び寄せたのでした。
「それは畏れ多いお言葉ですぞ。いやはや」
「遠慮はするな。後で後悔しても知らぬぞ」
その笑う顔が昔悪戯をした時のものと変わらぬので、惟光もつられて笑んでしまいます。
少し考えて、惟光は決めたように言いました。
「殿、須磨・明石を流浪した際にお持ちであった文箱がございましたな。あれを私にいただけませぬか」
「なんとこれは意表をついた答えであったな。あの文箱はなんの飾りもないただの文箱ぞ。蒔絵を凝らした美しい物はいくらでもあるものを。私はお前が望むなら実入りのよい所領でも譲ろうと思っていたものを」
「人には分相応があるのでございます。荷が勝ちすぎますと、どのような督促が後の世にあるのやら・・・。あれがよいのでございますよ。蒔絵の箱なぞこの惟光には宝の持ち腐れ。思い出の詰まったあの箱を手元に置いておきたいと願いまする」
「欲のないことだ」
須磨・明石を流離った折、源氏は自ら京を離れて蟄居したもので、簡素な衣を身に着けて贅沢なものは一切手元に置かなかったのでした。
文箱もなんの飾りもなくただのっぺりとした桐の無紋を愛用していたのです。
惟光はもう充分に源氏からあらゆるものを与えられたと感謝しているので、いつでも源氏との思い出を呼び起こす懐かしい品を選んだのでした。
「殿、須磨・明石におりました頃はそれは辛い思い出ではありましたが、お側近くにお仕え出来て嬉しゅうございました。畏れ多いことですが、日々殿を身近に感じて男同士でわいわいと、それもまた今ではよき思い出でございますよ」
「今となってはそうかもしれぬな」
源氏も昔を懐かしむように惟光が語る思い出話に耳を傾け、深更まで盃を交わしながら、久々に楽しい時を過ごしたのでした。

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