令和源氏物語 宇治の恋華 第七十三話
第七十三話 うしなった愛(六)
匂宮と中君が固く契りを交わした朝は宇治特有の川霧に包まれておりました。
妻戸を押し開けて宇治川を望むと芝を積んだ一艘の舟が霧に見え隠れしながら通り過ぎ、その後にたつ白浪も趣き深くて心に沁みるものです。
「この静かな山であなたと二人で暮らせたならば幸せだろうね」
匂宮がしみじみと遠くをみつめているのは前夜の中宮の戒めが心の中にあるからです。
「山里などわびしいばかりですわ。冬に聞く川音も恐ろしいばかりですし。宮さまのようにご身分の高い御方が心を寄せるような場所ではありません」
「その高い身分とやらが私をがんじがらめにするのだから弱ったものだ」
匂宮は中宮の訓戒から自身の置かれている立場などを中君にも理解できるように語りました。
「昨夜は無理をして抜け出してきたからこれからは外出を制限されるかもしれない。善意で背中を押してくれた薫にも迷惑がかかるであろう」
「まぁ、そんな無理を圧してしてお越しくださったのですね」
「それでもあなたと正式に夫婦になれたのだ。後悔はすまいよ。結婚したてでこんなことを言うのは本意ではないが、もしかしたらこれから先私が足繁く訪れることができないとしてもそれは私の心からではないということをあなたにわかっていただきたいのだ。いつでも気持ちは樵(きこり)のままであなたとずっとありたいというのが本心なのだよ」
「わたくしは宮さまを信じて待ちますわ」
山の端に朝陽がさして辺りを照らすとまっすぐと宮を見つめる中君の姿が浮かび上がるように露わになりました。
なんと見飽きぬ美しさ。
皇女の中にもこれほど神々しい麗しさを持つ姫はおらぬであろう。
この人をけして見捨てることはあるまいよ、と匂宮は己に誓いました。
匂宮:中絶えん物ならなくに橋姫の
片敷く袖や夜半に濡らさん
(私達の夫婦の仲は隔てられても絶えることはないと信じ合っているのだが、それでもあなたは寂しさのあまり泣くのであろうか。そう思うと私は辛くていてもたてもいられませんよ)
中君:絶えせじのわが頼みにや宇治橋の
遥けき中を待ちわびるべき
(あなたとの夫婦の仲を絶えさせることはないと自分に言い聞かせて私は宇治橋のように長い間を待ちわびるのでしょうね)
そうして悄然とする新妻の可愛らしくもつややかな姿が匂宮の心をこの地に縛り付ける。
「私の本当の心はあなただけが知ってくれればそれでよい。わかってくださいますね」
「ええ、わかっておりますわ」
無理に微笑む中君の頬には一滴の澄んだ涙がこぼれるのでした。
正式な夫婦となった今は陽が上ってからゆるゆる京へ向かうのを女房たちは宮の美貌を目の当たりにして常人ではない尊さに目も眩んだとか。
中には薫中納言よりもお美しいと言う者もありましたが、そういわれるとカチンとくるもので、大君には匂宮の美貌が鍍金のようにけばけばしく思われて、なんの薫君より優れたところがあろうかと密かに鼻白みました。
隋人達によって匂宮の敢然とした決断による内裏からの脱出劇が、実は薫君の機転のおかげであるということを知らされて、大君の心にはさざ波が押し寄せるようにざわめくのです。
中君は匂宮の残り香に包まれてぼんやりの女人の定めというものについて考えておりました。
最初の夜は何が起こったかもわからずに迎えた運命。
あまりのことで涙に暮れて、自分が何者であるのかも見失うほどに惑乱したものです。
二日目の宵には思い屈して初めて夫となった人と向き合いました。
三日夜には生涯を共にという誓いの元に自らの意志をもって匂宮を受け入れたのです。
まこと夫婦となるにはこれほどの時間が必要なのかもしれません。
それにしても愛される喜びと打ち捨てられるのではないかという不安が同時に芽生えて、あの浮気という噂の宮なればという猜疑心さえ湧き起る。
女人というものは物思いせずにはいられぬ生き物よ、と中君はせつなく溜息を吐くのでした。
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