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貴方のスキマへと愛をこめて

そろそろ終わりにする時が来たようだ。


 いや、いきなり? ってああ違うよ、この話じゃなくてさ。何で書いてるの、と聞かれたときに『書きたいから書いてる』なんて極論を持ち出して、現実から微妙に目を逸らすのもそろそろ、ってこと。
 何故書いているのか。誰かにそう問われたとき、大抵の場合は『自己の存在を遺すために』と答えることにしている。しかしこの機会に改めて自問してみたとき、キーボードをはじく指がふつ、と止まってしまった。存在証明、それ自体に嘘はない。嘘はない……が、ではその大いなるエゴ、究極的には自分だけのために『文章』などという非常に扱いづらい手段、ツールを選択した理由は、さて人生のどこら辺にあったのだろう。どんな出来事がきっかけで今に――『書く』に至ったのか。何故。


 つも『きっかけ』として挙げていたのは、私が中高生の頃、90年代にものすごく売れていた某ライトノベルだ。ギャグとシリアスの塩梅が絶妙で物語がテンポよく進み、一文が長くなく、音読を想像した際のリズムが文章や単語の組み合わせによって軽快に整えられている。『ライト文芸』なんて言葉もまだなかった当時は『こんなものは小説ではない』みたいな批判もあったものと記憶しているが、誰が何と言おうが面白いものは面白く、独特かつ魅力的な世界観に引き込まれるのにしたる時間はかからなかった。漠然と『作家になりたい』と思った最初の瞬間は、当時十代だった私にこの作品がもたらしたのに違いない。

 受けた影響は大人になっても多少なり残っているものの、淡い――つまりは具体性に欠けるユメを抱いて執筆を始めた十代の私は、今よりずっと色濃く染まっていた。よりによって、他人の文章に。自分だけのセカイを表現しようと息巻いておきながら借り物のスタイルで創作を試みる、そんな矛盾に気付かないまま、何年くらい過ごしたものか。やがて学生から社会人になって労働に身をやつした結果、ユメだの何だのと考える余裕もないほど疲弊した挙句にシンコーシューキョーってやつにまで引っ張りこまれた時期さえあったものだから、ほぼ十年にもなるだろうか。

 いろいろ辞めたり始めたりまた辞めたりを繰り返しながら、どうにかこうにか気力体力を取り戻したとき、自分の思いもまた同じところに戻ってきた。『やっぱり何か書きたい』と。その時になってようやく、人真似の文体のままでは勝負できないと気づき、様々なアレソレを読んだり書いたり調べたりして何処かに落っことしたままのmyselfを探してみるなど諸々……。

 ……と、うっかりまた自分の半生を(これまでとほぼ同じように)語ってしまいそうになったところで一寸ちょっと待ってみようじゃないか私&貴方。ここまで改めて自分自身について語らせてもらい、また改めて書いたものを冷&静に読み返してみるとだ。
 先に挙げた『きっかけ』ってのは、あくまで『作家になりたいと思った』ときのモノきっかけであって、そもそも『書く』という行為に至った、その方法を選ぶ動機となったモノとは……もしかして、もしかすると。

 ちと、違うのではないか。

 んてこった。自分でさえ『これが原点だ!!』と信じて疑わず、だからこそ、これまでに似たようなことを何度か言い続けたうえで今回またも繰り返したのにだよ。実はそこは原点からややズレた別の場所でした、なんて衝撃の事実もいいところ、この記事を書く瞬間まで完全に忘れてたってことだよ、要するに。書いてる本人がいちばんビックリしてる。じゃあ一体どこら辺にあるんだ私・ジ・オリジン。中学以前にまとまった文章を書いたコト、作文か読書感想文の他にあったっけ? いや、あったな。たった一度だけ。


 学生の時にも修学旅行があって、たしか愛媛から広島に向かい、一泊か二泊したものと思う。三十年近くが過ぎた今となってはよく覚えていないし、大事なのは帰ってきてからなので中身の話は別にいいや。とにかく修学旅行の思い出を作文にしましょう、その作文を班ごとに集めて『文集』にしますよ、でもって保護者にも読んでもらいますよ、という宿題が出たわけだ。そう言われても作文は作文、『小学生らしい』文章を、原稿用紙に『っぽく』書くだけのものを、どうしろと。
 困惑する生徒たちを前に当時の担任が取り出し、おもむろに朗読を始めたのが、以前受け持っていた別の学級の『文集』に収められた一編だった。聞き終えての感想はただの一言、ひたすらに面白い。それだけだった。

 快なタッチで飛び跳ねるように展開し、しっかり笑いどころを押さえ、たとえるなら丁寧語の『です』と『ます』とを作文という概念ごと瀬戸内海にブン投げたような。まさに体験記・エッセイと呼ぶにふさわしいその文章に、当時どれほどの衝撃を受けたことか。そんな文章がこの世に存在するというのも驚きだったが、何より『作文っぽく書かなくていい』という事実は最高にハッピーな発見だった。で、早速パクったのは言うまでもない。
 やっぱり人真似か、と思うかもしれない、けれども教室の隅のホームズではとても参考にならなかったから大目に見てほしい。仮に修学旅行先が同じだったとしても体験は各々違うはずなので、ぎりぎりオリジナルと言えないこともないだろう。思い込みという、ある種の『枷』を取り去って勢いのままに書いたそれ、言うなれば私の初エッセイはありがたいことに好評で、ある保護者の方からは『小説を読んでいるみたいだった!』との感想もいただけた。

 ふだん直接は関わりのない誰かに文章を読んでもらったのも初めてなら、感想をもらったのも、まして『面白かった』と言われたのも初めてで、それがとてもうれしかったのを――ちゃんと思い出せたよ。今になって、ようやく。

 最初から自分だけのために書いていたわけじゃ、なかった。
 そう、私はね、誰かに楽しんだり喜んだりしてもらえるのが嬉しいんだ。
『書く』という手段を選んだのは、たまたまそれが得意だったからに過ぎない。いちばん身近なところに、紙とペンがあったから。運命がそれを、『書く』を選んだ。
 生きるのに必死で、自分を保つだけで限界だった過去の時間の中で、読んでくれる誰かを思いやる力失われてしまっていた、ように思う。ずいぶん時間がかかったけれど、noteを通してその力を取り戻したなら、また新しい気持ちで文章を、言葉を届けていかなくてはね。
 だから、私は今日も書く。読んでくれた誰かのスキマに、少しでも喜びが増えるように。

 ◇

 ――いかがだろう。これこそ私の『書く理由』だ。
 ここまで来て、こう、思わなかったろうか。

『なんか月並みだな』と。


 ぶっちゃけ私は思った。引っ張りに引っ張って感動的な語り口で締めようとしたものの、他の人とあんまり変わらない。試しに同様のテーマで書かれた記事を数本読んでみれば分かりやすい。なぜ書くの、という問いに対して、たいてい『自分のため』か『誰かのため』、もしくはその両方の、三つのうちのどれかが答えとして示されているはずだ。これは一見、変わり映えしないようにも見える。でも。
 文章などを『書く』人だけでなく、たとえば絵を描く人や音楽を作る人に向けて『なぜそうしているのか』と問えば、きっと同じ結論に行きつくだろう。『表現』に属する行為すべての動機は、結果としてその三種に集約される。創造者の内側に(創造者自身さえ気付かないまま)秘められていた『思い』を、多大なる時間と労力を割いてまで『』に『』したのなら、その観測者は自己・他者・その両者のほかにない。そこからどう枝分かれしていくかは、その創造者が何を大切にしているかで変わっていくのだろうけど。

 局は皆と同じところに行きついたとしても、私が本当の『書くきっかけ』を再発見できたのは事実だ。書いた文章を読んでもらえて、ひとときの楽しさを提供できたなら、心からうれしい。それももちろん嘘じゃない。だから書き続ける。読者の楽しみと自分の喜びのために。その意志は揺るがない。確固たるものがあるなら、月並みでもいいじゃない。だって私は月だもの。


 貴方は今どこにいて、どんな状況でこの文章を読んでいるだろう。忙しい日常のわずかな合間、ごくごく短いスキマの時間に、画面を眺めてたりしているのだろうか。画面狭しと並んだ数多くの記事の中から、ちゃんとこの記事を目に留めてくれてどうもありがとう。
 その一押しがどれほど貴重で、書き手にどれほどの感動を与えているか、考えたことはあるかな。スマートフォンが普及してから、一期一会も指先ひとつで完結できる時代になった。スワイプした先が、スクロールの量がほんの少しズレていたなら、お互い巡り合わなかったかもしれない。確率の低さだけを見れば、奇跡と言っても過言ではないと、そう思わないかい?

 ひと言で『スキマ』といってみても、人によって状況は様々だ。電車の中、病院の待合室、職場での小休憩、カップ麺ができるまで、行列に並ぶ間、あるいは何もしたくなくてスマホだけ手にしている、という時だって。人の数だけスキマの形は違っていて、けれど共通点もある。体そのものは今いる場所から移動できなくても、心まで縛られていない、そんな時間だということ。
 手のひらの上で、ほとんどのことができる。頭の中で、自由に想像ができる。自分の好きと向き合える瞬――『スキマ』とはつまり『好き』だと、表現できる。心が充足を求める、その一瞬をいただくなら、やっぱり楽しんでもらいたい。満足感を得て、次の別の一瞬へ向かってもらいたい。そうして貴方の心が私を覚えていてくれたなら、そのハートが私の存在を未来につないでくれる。

 私こそは紙上のエンターテイナー。


『読む』という愉しみを、貴方の好き間スキマへとラヴをこめて――これからも。


最後までご観覧いただき、本当にありがとう。
次の作品ショーで、またお会いしましょう!




#なぜ私は書くのか



The End🌛







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