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短編小説集

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自作の短編小説を集めてあるよ。ジャンルフリー。
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#日常

憧憬

 涼やかな風が吹き抜け、陽射しが円みをおび、彼岸花の花弁がしおれはじめて、季節はもうすっかり秋になりました。  わたしは今、本を読んでいます。ひとりでのスポーツは張り合いがないですし、食欲もそれほど……普段と同じくらいにしか、ありません。ゆったりと心を落ち着けるように読書にふけるのが、いちばん合っているように思います。  音のない空間で物語を読み進めていると、本の中に入り込んで、余計なことを考えず、日常や現実というものを忘れられるように思いませんか。暑すぎても寒すぎても気が散

すばらしき文明

 先生、記憶を消したいのですが――。  開業医の私のもとに、そのような『患者』が訪れるようになって、もう数年が経つ。 「はい。いつ頃のですか」 「六年前の、九月九日です。時刻は夜八時十九分七秒です」  私は患者から差し出されたタブレット端末を指で操作し、速やかに目的の『呟き』、SNSへ投稿された、短い文章を見つける。ちらと日付時刻を確認すると、然るべき手順に則ってその『呟き』を削除した。サーバーまでアクセスすることはできないから、『患者』のアカウントから該当する投稿を削除した

PSYCHOな蓮美ちゃん②

 金曜日。帰りのホームルームが終わり放課のチャイムが響くと、教室の生徒たちは思い思いに行動を始めました。ようやっと平日が過ぎ去り、待ちに待った週末です。  休日を一秒でも長く過ごそうと家路を急ぐ人もいれば、のんびりと友人とのおしゃべりに興じる人もいます。蓮美ちゃんもおもむろに席を立ちますが、どこか元気がありません。 「ハスミ、暗いカオしてどうしたの?」 「ちょっとね。パパとママがケンカしてて。家に帰るの気が重いなって」  友人が心配げに近づいてきました。蓮美ちゃんはわざと大き

おすすめの生き方

 とある会社のオフィスで、二人の男性が仕事をこなしていた。二人はそれぞれデスクに座り、ノートパソコンの画面を見つめてはキーボードを叩く、という作業を繰り返していた。ひとりは中年のベテラン社員で、もう一人は入社したばかりの若い新人だった。彼らの所属している部署に、他に人はいない。 「今日もいい記事が見つかるといいですね、先輩」 「ああ。いくつも読むのは大変だが、これも世の多くの読者のためだ。新人くんも頑張ってくれたまえ」  彼らの仕事はシンプルだ。ブログやSNS、いわゆる掲示板

message

 狭い部屋だった。  キッチンに風呂とトイレ、あとは、その部屋ひとつ。最小限の家具だけが置かれるに留まり、目に入るものは数えるほどもない。良く言えば清潔感のある、悪く言えば殺風景なこの空間で、一組の夫婦が暮らしていた。  朝がやってくると、二人は早くから起き、夫は仕事の支度をして、妻は食事の準備をした。早朝の忙しい時間は瞬く間に過ぎて、夫が朝食もそこそこに玄関の扉に手を掛けると、妻はいつも後ろから見送りの声をかけた。ただ、夫はほとんどそれに応えなかった。夫は無口で、口下手な人

PSYCHOな蓮美ちゃん

 ある夜更けのこと。その女の子は自室でスマートフォンの画面をしきりにつつきながら、ぽつりとつぶやきました。 「うーん、思ったより伸びないなあ」  蓮美ちゃんはこの春に高校入学したばかりの高校一年生。入学を機に念願だったスマートフォンを買ってもらい、周囲よりやや遅めの『スマホデビュー』を果たしたのでした。すぐに今はやりのSNSに登録し、ひと通りの使い方も覚えたのですが、自分の投稿への反応は芳しくありません。 「今日はもう遅いし、明日、学校で誰かに聞いてみよう」  深夜にメッセー

悪性希望症候群

 むかし、声優という職業に就きたかった。  作品と演技を通して見る者に感動を与える、そんな存在に憧れた。わたしがもらったものと同じ感動、あるいはそれ以上の何かを与えられる人間に、わたしもなりたい。そう思っていた。  けれど現実はそう上手く運ぶものでもなく、周囲の理解が得られないまま、味方のひとりもいないままであえなく挫折してしまった。  それならせめて、真っ当な社会人になって真っ当に働き、良い伴侶と人生を共にして家庭を築いていきたいと、そうも考えた。描いた理想とは違う形だが