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憧憬

 涼やかな風が吹き抜け、陽射しが円みをおび、彼岸花の花弁がしおれはじめて、季節はもうすっかり秋になりました。
 わたしは今、本を読んでいます。ひとりでのスポーツは張り合いがないですし、食欲もそれほど……普段と同じくらいにしか、ありません。ゆったりと心を落ち着けるように読書にふけるのが、いちばん合っているように思います。
 音のない空間で物語を読み進めていると、本の中に入り込んで、余計なことを考えず、日常や現実というものを忘れられるように思いませんか。暑すぎても寒すぎても気が散りますし、春はすこし、彩りが過ぎます。
 こうして、うら寂しいながらも落ち着いていられるのは、ひとえに季節のお陰でしょう。それでも、抜けるような青い空はまだ、沁みてしまうのですが。

 少し広くなった部屋の中で、ただただ静かに過ごすというのは不思議な感覚です。かといってTVやラジオの雑多な音声は耳に障りますし、穏やかな賑やかさの代わりにはならないようです。
 静かすぎるせいで、食事の準備をするときの食器の音だとか、歩いたときの床の軋み、それから自分の呼吸の音、などが、ずいぶんと大きな音に聞こえます。明るいうちはまだ、いい方です。夜になると、がらんどうの部屋に、体に、その音が長く響きます。
 眠りたくなるまで本を読む――いいえ、本当は眠らずにでも物語に囚われていたいくらいです。好い夢でも悪い夢でも、覚めてみて切ないのなら同じです。忘れたままでいいことまで、よみがえるかもしれないでしょう。

 この部屋のいたるところ、たとえばテーブル、ソファ、ベッド、蛍光灯のスイッチやフローリングのキズにまで、それぞれいとしさをともなった瞬間がありました。スペースの余った歯ブラシたてを買い替えるのさえ躊躇してしまうくらいに。もしこんな話をしたら、笑われてしまうのでしょうね。本当に、おかしな話です。
 今でも、時おり、書物を手放して、窓際にたたずむことがあります。涼やかな風に吹かれて、朝は円やかな陽射しを受けて、抜けるような青空を見上げて、夜は仄かな月明かりの中で、澄んだ星空を眺めて……。
 そう、しながら、いつかの秋を……。
 まだ隣に在った温もりを、思い出さずにはいられないのです。

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