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悪性希望症候群

 むかし、声優という職業に就きたかった。
 作品と演技を通して見る者に感動を与える、そんな存在に憧れた。わたしがもらったものと同じ感動、あるいはそれ以上の何かを与えられる人間に、わたしもなりたい。そう思っていた。
 けれど現実はそう上手く運ぶものでもなく、周囲の理解が得られないまま、味方のひとりもいないままであえなく挫折してしまった。

 それならせめて、真っ当な社会人になって真っ当に働き、良い伴侶と人生を共にして家庭を築いていきたいと、そうも考えた。描いた理想とは違う形だが、普通の生活ぐらいなら難しくはないだろうと思っていた。周りの友人たちと同じように。
 けれどこれも、どうしてか上手くいかない。職を転々として、気付けばもう若くもない歳になってしまっている。

 憧れの業界と、人並みの幸せ。現実性にちょっとギャップがあるだけで、少なくともわたしにとってはどちらも『夢』であり、それ自体が『希望』だった。
 成し難い方と、どちらかといえば成し易い方、どちらの夢も破れてしまった。夢は叶えられる者と叶えられない者とがいて、わたしは後者――望んだわけでもないのに、そうと悟らざるを得なかった。
 代わりにまとわりついたのは諦めと虚無感、前向きに生きるのに疲れて、特に好きでもないアルバイトに身をやつしながら細々と日々を送り、現在に至る。

 誰しも夢は抱くだろうし、そのうちの多くが挫折を味わうことにもなるのだろう。諦めを選択する場合もあるのだろう。しかし夢のひとつふたつが破れても、大抵の者はどこかで自分の心と折り合いをつけ、新しい目標や理想を掲げて日々を生きている、だろう。
 けれど――けれど。夢や理想、そこに到達できるという希望をどうしても捨てきれずに長くもがき苦しんだもの、そうして気がついたときには独りになっていたものも、一定数、それなりに大多数が、間違いなくいるはずなのだ。
 夢ばかり追い続けた結果、足下の現実に馴染めないでいる人間。例えるなら、今のわたしのような。

 夢を持つこと、それを希望とすることは悪くないこと、だと思う。人はそれがあるから生きていられるのだろうし、きっかけなんてそこらじゅうに溢れている。テレビや動画サイト、街中の大型ビジョンに映し出されるのはほとんどいつも『成功者』たちの姿だ。
 アイドル、スポーツ選手、あるいは大企業の社長とか、わが町のちょっとした有名人に至るまで――種類は違っても、一体どれだけの人が彼ら成功者に羨望の眼差しを向け、憧れを抱き、希望をもらっているだろうか。その人物、あるいは功績を目標とし努力している人が、どれだけいるだろうか。

 夢を抱き、希望とともに目標へと邁進する。素晴らしいことだ。
 けれど。
 その目標には、夢には、どうしても到達しえないと自覚してしまったとき、その身に据えていた希望は瞬く間に絶望に変わる。まさに手のひらを返すように。
 そうして、第二第三のわたしが生まれるのだ。
 今日もまた、どこかで、きっと。

 今日もまたどこかで、偶像たちが雑多な夢と希望をふりまいている。
 わたしたちは希望を享受しているのか。
 それとも、絶望の因子に感染させられているのか。
 果たして、どちらなのだろうね――。

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