そして生活はつづく
重い体を引きずるようにして起き上がり、ふと鏡をのぞくとぎょっとするほど顔が土気色だった。
不健康という言葉をそのまんま具現化したような色。
たっぷり寝たにもかかわらず、目の下には落ちくぼんだような影ができ、頬はげっそりとこけている。
と言いたいところなのだが、たった一日や二日の食欲不振でそれが叶うことはなく、相変わらずの丸顔がじいっとこちらを見つめているばかりであった。
エアコンにやられたのか、暑気にやられたのか、はたまたその両方を統合したいわゆる夏風邪というものなのかはわからないが、絶賛体調不良現在進行形である(ぜっさん・たいちょうふりょう・げんざいしんこうけい)。
喉が炎症をおこして真っ赤に腫れている(ような気がする)。
痰のからんだ厭な咳が出るたび、焼けつくような痛みがわたしを襲う。体が怠くおでこは熱く、頭もずしりと重い。
発熱というのは、非常に厄介かつあまり人に言いふらすのはよろしくないとされているものだが、その中でもちょっとおもしろいなあと感じることがある。
いつも見ている景色や歩いている道が、ちょっと違ったふうに感じられませんか。
空気の手ざわり、皮膚にふれる外気、目に映るものの色やかたち、そして、自分の周りに満ちたありとあらゆる匂い(鼻が詰まっているとかそういうことではなく)。
たとえば今日の朝、授業に向かっていたときのこと。午前9時を回ったばかりだというのに、気温は30℃超えである。
いつもならばとめどなく流れる汗に苛立つところだが、今日はなんだか違っていた。
てりってりの直射日光に打たれてくらくらしながらも、わたしはそれをよけて歩いたり、ましてやクリームを塗って日焼けを防ごうだなんてちっとも思わなかったのだ。
もはや思考回路や感覚が麻痺してるんじゃないかという気がしなくもないが、不思議なことにいつも感じる「暑い」とはちょっと違うのである。
普段はわたしの表面を覆っている衣服や皮膚に直接刺さってくるはずの暑さが、なんだか今日は体のすこし外側にぶつかっているような。
「暑い」ことに変わりはなく、汗だってよどみなく流れているのだけれど、なんだか非現実的な感じがぬぐえない。
あと、地面からちょっと浮いたところを歩いているような感じがする。これは、発熱時には誰しも経験したことがあるのではないだろうか。
ふわふわとした足取り、といえばなんとなく聞こえがいいが実際そんなかわいらしいものではなく、わたしは酔っ払いのようにふらふらと蛇行しながら大学へと向かった。
「病んでますね」と後輩に言わしめるほど荒れ狂っていた精神状態がやっと落ち着いたかと思えば、今度はその容れ物の番である。
高校まではせいぜい季節の変わり目くらいだったのに、ひとり暮らしを始めてからというもの頻繁に熱を出すようになった。
少なくともこの半年間で3~4回はそういうことがあり、こんなにやわな体ではなかったはずなのになあと首をひねるばかり。
今日も今日とてやむを得ずアルバイト先に欠勤の連絡を入れ、何も頭に入らぬままとりあえず1限目の授業を受講するという任務を達成した後、わたしは薬局で総合風邪薬「プレコール 24錠」を購入し、京都市民御用達のスーパー「フレスコ」で買い物を済ませ、ひゃーしんどい!!という感じでなんとか自宅に帰りついた。
「体調を崩しても食欲は落ちない」ということに悩みつつもこれまで盛大にネタにしてきたわたしを、どうか笑ってください。
まったくもって、おもしろいほどに食欲がないのである。
しかしながら「風邪で食欲なくてぇ~~~」とほざいてかわいそうぶっていても事態はなんら好転しない。さらに悲しいことには、実際何一つおもしろくないので誰一人笑ってくれやしない。
ここはひとり暮らしの宿命。自分で自分を食わせて、元気にしてやるしかないのである。
早々にそう悟ったわたしは、猛然と雑炊を作って掻き込んだ。食後にはしっかりとプレコールも飲んだ。枕元には「体に一番近い水・ポカリスウェット」(こんなんやっけ?)のペットボトルを準備した。冷房は、体と環境にやさしい28℃設定である。なにもかも完璧だ。
朦朧とした頭で満足げにそう思い、わたしは一人眠りについた。
ゆるゆると3時間ほど眠り、目が覚めた。
ぼやっとしたままポカリを飲み、トイレで用を足して手を洗っていると、山のようになった洗濯物が目に入った。
薬が効いているのか、さほどしんどくはない。これはもう今やっちまうしかないと思ったわたしは、半ばやけくそで洗濯機のスタートボタンを押した。
フレスコで調達してきたプリンのようなものをだらだら食べているうち洗濯が終わったので(信じられないことに食べきれなかった)、干しっぱなしだった洗濯物をかたづけた後にだらだらと干し、再び定位置に腰を下ろす。
と、あまりの部屋の汚さに愕然とした。
まず、食事兼読書兼パソコン兼その他諸々も兼用である正方形の机の上は、面積のおよそ3分の2がモノで埋め尽くされている。
ティッシュペーパーやリモコンなどはいいとして、雑誌と本と日記帳とクリアファイルに加えて、メイクポーチ、コンビニでもらったおしぼりやビニール袋、1か月ほど前から出しっぱなしのハンドクリームやさらには3Dメガネまでもがひしめいているのである。
そのまま机の右側へと速やかに視線をスライドさせると、床の上にはカーディガンやバイト用の服やトートバッグやポーチやスカートがぐっしゃあと散乱している。
左側には教科書類やブックカバー、文庫本、フリーペーパーやビニール袋やA4サイズの封筒や届いた郵便物などが、これまたぐっしゃあと散らばっているのだ。
…これはひどい。女子力の「女」の字、さらにいうなれば「くのいち」の「く」の字もない有様である。
ちらりと自分の座っている場所に目をやると、昨日の晩から敷きっぱなしである布団の上である。
(いやさすがに普段はちゃんとたたむんやで?ただ今日はほら、やむを得なかった)
不意に、先日読み終えたばかりである『夜は短し歩けよ乙女』の主人公が、万年床で日々を過ごすシーンの描写が脳裏に浮かぶ。
布団の中でテレビを観、布団の中でメシを喰い、布団の中で勉強し、布団中で施策に耽り、布団の中でジョニーを宥める。まことに「万年床」こそ、我が唾棄すべき青春の主戦場であった。
勿論これは、ジョニー云々も含め主人公が男子大学生であるからおもしろおかしいのであって、現役女子大生がいかに忠実に再現したところで魅力のかけらもありますまい。
ただ、わたしは自分の現状と重なる部分を見出した末「時にはこんな自堕落も悪くない」という結論に至ってしまったのだから困ったものである。
眠ることにも飽きたので、近くに置いてあった本を引き寄せてはぱらぱらと読んだ。
何度も読んだことのある本を二冊ほどゆるっと拾い読みし(わたしには同時進行で何冊も読んでしまうくせがある)、何気なくこの間借りた本に手を伸ばした。
『そして生活は続く』 / 星野源
はじめは、それまでと同様ゆるっと読んでいた。
しかしたちまちぐんぐん引き込まれ、読み終えるころには「わたしも書きたい」という強烈な欲求に駆られていた。
おもしろかった。
ものすごくおもしろかったのだ。
ばかみたいな感想だが(そして周知の事実かもしれないが)、
「この人、ただものじゃないすごい人だ」と思った。
そう思うのには理由がある。
星野源は、元来きっと普通の人なのだ。
さっき書いたことと思いっきり矛盾しているようだが、そうではない。
演劇、音楽、文筆と多岐にわたる活動をしていて、今や一流の芸能人として活躍している彼もまた、わたしたちとなんら変わらない生身の人間なのだということ。
生まれつきの、たぐいまれなる才能に恵まれた人間ではないのである。
もがいてあがいて苦しんで、「もー死んじゃえばいいじゃんオレなんかさああ」(本文より)って思ったりもしながら、それでも必死こいて負の感情を正に転換し、それを才能へと昇華させ続けることによって、なんとか生きながらえている。
自分を半殺しにすることで生じたエネルギーを使って、自分を生かしているのだ。
星野源のそんな生き方は、決して誰にでも真似できるものではない。
彼がさらけ出したどろどろした黒い感情の中には自分に通ずる部分がたくさんあったからこそ、それがどれだけ難しいことなのかがよくわかるような気がした。
視力がものすごく悪いという星野源が、レーシック手術を受けるか否か悩む場面がある。
単に自分の体にメスを入れるという恐怖だけではなく、視力が上がることによって自分が変わってしまうことへの怖さが生まれるというのだ。
なぜそこに恐怖を感じるのか。それは、私自身が自分の屈折した部分に「食わせて」もらっているからだ。
今まで自分が受けてきた嫌なことや、ストレス、怒り、不満などによって私はいつしか屈折した考え方をするようになった。しかし、そこから生まれたアイディアを原動力にものを作ってお金を稼ぎ、ご飯を食べているという部分もあるにはある。
たとえば私がいま何をしていても気持ちよく、健康で、お金もあって、不自由なことなど一つもない暮らしをしているのならば、表現なんてしなくても全然いい。
生きづらさを緩和するために表現をするのだし、マイナスがあるからプラスが生まれるわけだし、陰があるから光が美しく見えるのである。不満がなくなり、全てのことに満足したら何もしなくなってしまうだろうなといつも思う。
だから、逆に不満や不調をなるべくたくさん、自分の心や体が崩壊しないギリギリのラインで保持しておきたい。眼鏡やコンタクトをつけるストレスでさえも、私の仕事の活力になり得るのだ。
ベタなことこのうえない表現であることを承知で言わせていただくと、まさに「目からウロコ」な衝撃であった。
これまで(特に最近)、自分がむやみに苦しみながらも憑かれたように表現をやめられなかったのはこういうことだったのかと。
見ず知らず(?)の星野源に自分の心情も行動も見透かされ、それを裏付けられたような気持ちになった。
わたしが猛烈に書きたくなるのは、ネガティブな感情に支配されている時が圧倒的に多い。
かれこれ12年ほど日記をつけているのだが、それもまた負の感情による文章が明らかに多い。
というのも、多分「忘れたくない」以上に「吐き出したい」っていう思いの方が強いからなんだろうなあと思う。
わたしにとって「書くこと」は、ぐるぐる渦巻く自分の感情を吐き出して整理して、とりあえずスッキリさせるという目的が一番なのだと思う。
もちろん書いたものは人に読んでもらいたいし、あわよくば評価だってされたい。
でもそこまで気持ちが及ぶ前に、まずは「外に出したい」が大前提にあるのだ。
しかし不思議なことに、冷静になったあとでも刺さるのは、そうやって身を削るみたいにして紡いだ文章なのである。
わたしはよく自分の文章を読み返すのだが、そんなときに無我夢中で吐き出した言葉に励まされたことが何度もある。
逆に、(精神が)元気な時に書いた文章は、なんとなくうすっぺらく上辺だけを撫でているように感じることが多いような気がするのだ。
(まあそこは自分の能力の問題もありますが。いつだって満足のいくものを書けるようになりたい)
少し話がそれてしまったが、そういうわけで星野源にまんまと触発されてパソコンを立ち上げ、今に至るというわけだ。
まじめな部分だけを抜粋したけれど、それ以上に「ばか」と「くだらない」に満ちていて読みやすいエッセイだった。何度も「ふふ。」と笑ってしまった。
そんなこんなで、今日という日が終わろうとしている。
明日には喉の痛みも体の怠さも消え去って、ぐーーーんと元気になっていないかな。なっていたらいいな。
人間の生活はまったく面倒で滑稽で、複雑なようでいて笑っちゃうくらいシンプルなものである。
失恋したってお腹は空くし、『ある人気ロックバンドのギタリストが三万人の観客の前で素晴らしい演奏をしたその十時間前、彼は自宅のトイレで便器の黄ばみが取れなくて悩んでいたかもしれない』し、風邪をひいて熱っぽくたって、頭と体はやりたいことへと全力で向かう。
かっこわるくて楽しくて厄介で、でもそうやって日々は進んでいく。
そして、生活はつづくのだ。
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