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東京都現代美術館「マーク・マンダースの不在」展にて

2021/06/20 日曜日

オランダの現代美術作家であるマーク・マンダースの日本国内美術館での初個展となる今展示。展示を観た個人的な雑感を書いていく。

「不在」

マークは、1968年にオランダのフォルケルにて、大工の父と専業主婦の母を持ち生まれ育った。彼が彫刻やオブジェという表現に至ったこと、そして制作意欲(テーマ)を得たことには、父と母の存在が大きな影響をもたらしている。作家は以下のようにインタビューに答えている。

父はいつもなにか作っていて、自然と私も作るようになりました。・・・私の両親は戦争で本当につらい思いをしました。息子を亡くしたのです。母はたびたび心を病みました。そのとき感じたことが強く心に残っています。・・・(中略)・・・私が本当につくりたいと願うもの。それはまったく動かず完全に沈黙して、張りつめたまま時を横断する。うまくいえませんが、そうしたものを求めています。(「マーク・マンダース —マーク・マンダースの不在」展 作家インタビュー) https://www.youtube.com/watch?v=3eZvVeugd4k

マークの「不在」とは、そこにいないという言葉通りの意味を指すものではない。自分の作り出す世界を「凍結した瞬間」と呼ぶように、彼自身や家族(父と母)の歴史の中で通り過ぎた、「現在であった」瞬間の記憶や想いを凍結させ、今日に「現存させるための不在」を指す。

キーワード「本」

マークがその「不在」を表現するために必要だったアイテム、そのひとつは「本=言葉」だ。さまざまな言葉の組み合わせによりある新しいオブジェが誕生する。それはランダムなようでいて、しかし私たち皆に共通する何かを持っていると彼は考える。今展示はまさに「本」の中に閉じ込めた「不在」をオブジェという表現で外に取り出したものだ。

展示会場の入り口に印象深く置かれた『未焼成の土の頭部』は、物語の主人公を本の中に閉じ込めた作品である。木の板で挟まれた顔は、押し黙ったままじっとこちらを見つめる。
次の部屋に飾られた『夜の庭の光景』では、体を半分に切られた黒い猫が力なく黒い土の上に横たわり死んでいる。その体の切断部を見ると、そこには黒い木の板と黒い紙が見える。言葉に強く影響され、言葉を信じる人間に共通すること、それは言葉の恐ろしさも知っているということではないだろうか。言葉により切断され、言葉がもたらす死。暗い闇に包まれた庭で、誰の目にも触れずひそやかな死が訪れている。言葉により思いがけないところで誰かを追い詰め、命を奪ってしまう人間の浅はかさを、切断された黒い猫がこちらに伝えてくる。
顔に埋め込まれた黄色い板(=本)、オブジェの下でくしゃくしゃに踏まれた新聞紙など、マークの言葉に対するこだわりが至るところで見られる。

キーワード「顔の左側」

作品を観ていてあることに気づいた。それは、顔のオブジェの欠けている部分や板が刺さっているのは、常に顔の左側だということだ。

顔はほとんどの人間が左右非対称で、右と左でそれぞれ異なる心理を表している。通常顔の右側は「社会に向けた顔」であり、一方左側は「プライベートな顔」とされる。つまり、人の本音を表すのが顔の左側なのである。

常に顔の左側が欠けているマークのオブジェの中に私は、人が本当の心を隠してこの社会に生きていることの象徴を見た気がした。また、顔に刺さった黄色い板(=本)。これは本(=芸術表現)という閉じられた世界の中でしか、私たち人間が本音を曝け出すことができないことを表しているように感じた。『未焼成の土の頭部』の中では板に挟まれた隙間(本の中)から、真っ直ぐにこちらを見てくる右目がある。それが私には、自由であるはずの表現の中でさえ私たちは本音を語れなくなるくらい、現実を生きる仮の自分が威力を持ってしまっているのだと言うマークの声を聞いたような気がした。

木の板(=本)に挟まれた顔が目を開いているのに対し、他の作品ではすべて目を閉じている。これもまた、虚偽の自分の姿をおさめるためには、本(=芸術表現)が必要であると考えるマークの信念が表れているのではないだろうか。強力に染み付いた嘘の自分(目を見開いた顔)を閉じ込めようと、幾つも板を重ねて押さえ込むのだ。そこにはマークの反発が表れる。
外の世界、つまり日常という世界では、私たちはあらゆる本当の自分から目を背け、目を閉じ見ないようにすることでやり過ごす。しかしそんな中でも本(=芸術表現)を携える(顔に埋め込まれた木の板)ことで自分を失わずにいることができるのだと、そう示唆しているような気がした。左側にさしているのはやはり、本音の在り処が芸術の中にあることを指している。

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インタビューの中でも彼はこう語る。

美術史には美しい隙間がところどころあります。いろんなことがまだ可能だから。アートにはとても楽観的です。(「マーク・マンダース —マーク・マンダースの不在」展 作家インタビュー) https://www.youtube.com/watch?v=3eZvVeugd4k

彼にとって、芸術は真の自分を曝け出せる場であり、解放の地であると強く感じているのだろう。その隙間に懸ける彼の人生そのものが、作品の中に力強く表れている。

キーワード「母」

展示を観終わり家に帰ってインタビュー動画を観るまでマークに関して知らない事実がひとつあった。それは、マーク・マンダースが男性だったということだった。そう、前知識を持たずに足を運んだ私は、作品を観ながらずっと女性だと思っていたのだ。それは単純に、彼の作品の主人公のいくつかが少女であり、また顔のオブジェからもどこかしら女性的な雰囲気があったからだ。マークの作品を観て明るい印象を持つ人は稀だろうと思われるが、私は暗さの中に白いふわりとした優しさのようなものを感じた。その伝わってくる優しさが、どこか母性を思わせた。

先述したように、マークは母親の辛い経験による心の痛みを強く感じ、それが彼を制作へと向かわせたと語っている。今展示ではっきりと少女とわかる形をしているのは『マインド・スタディ』と『椅子の上の乾いた像』だ。

どちらの作品にも共通しているのは、テーブルや椅子を拒絶するように体を大きく反らしている少女の姿。

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また、『リビングルームの光景』では、人の姿はなく、テーブルを囲む椅子には重そうに粘土が詰められている。これを見て幸せな光景であると思う人はほとんどいないだろう。

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リビングという場所は、家族という存在を象徴する場所でもある。共に食事を囲み、大切なことを話し合う場所。家の真ん中に位置し、どこへ行くにも通過しなければならない場所。家族にとってそこは、避けては通れない場所である。展示後にインタビューを観て、私は直感的にあれはマークの母親の物語を凍結したものだったのだと思った。
戦争の中で息子を亡くした母である彼女にとって、息子と過ごしたその場所はきっと居るに耐えがたい場所だったはずだ。息子なき現実の中で他の家族とそのテーブルを囲んでいても、彼女の心(マインド)の距離はずっと遠くにあることを、もう一人の息子であるマークは繊細に感じ取っていたのではないだろうか。重く暗いリビングの光景を思い出せば辛くなる、しかしそれでも、あの時のことを忘れてはならないのだという、マークの強さと母に対する、また亡くなった兄弟に対する優しさが浮かび上がって見えてくる。

本来椅子は安息の場所とみなされるが、同時に縛りつけられ動けなくするものとも捉えられる。母親の心はいつも憩むことなく、しかし縛りつけられている自分にも辟易している。だがしかし、どこへ行けばよいのかもわからず、彼女は椅子から滑り落ちただうなだれる。まるで下半身のない幽霊のようになり、生命の水を枯らして乾いた生気のない人形のような母の姿を、彼は作品の中に封じ込めることにより、母を取り戻そうとしたのかもしれない。

そこには必ず癒しが訪れなければならない。私は作品をつくるマークの姿を想像し、心からそう願った。

他にも作品を観て思った細かなことはあるが、展示会場を出て特に印象に残った作品に対する雑感を書き落としてみた。展示はもう終了しているけれど、今後マーク・マンダースの作品を観る機会があれば、まずは自分の心で感じ、その後私の雑感と合わせてまた考えてみてもらいたい。

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