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空襲で生き残った母がいたから今がある。母から聞かされた空襲体験。(終戦記念日に寄せて)


母は戦争体験者だ。
 
昭和13年生まれだから、終戦時に7歳。年齢的にうろ覚えの記憶も多いだろうに、やはり戦争の記憶は鮮明なようで、壮絶な空襲の記憶を、幼いころから何度も聞かされた。

うちの母は35歳で出産し、わたしの同級生のお母さんたちは戦後生まれの人が多いので割と貴重な存在で、小学生の頃に母の戦争経験談をインタビューしてクラスで発表した記憶がある。

おそらく母は、幼いからこそ知らなくて済んだこともあったり、幼いからこそ鮮明に覚えていることもあって、自分が見たものをわたしに必死に伝えようとしたのかもしれない。

神戸で生まれ育った母の実家は、電気屋を営んでいたようだ。祖父は早くに亡くなったので会ったことはないが、めっぽう頭が切れるようで、分からないことがあると祖父のところにみんなが聞きに来るような人だったらしい。

だが神戸は都会。空襲が町を襲うようになり、母が行っていた幼稚園では、バケツリレーの練習をした記憶があるという。戦況は悪化して、いよいよいつ家に爆弾が落ちてもおかしくない状況になった。

実際に体験した人の語りはやはりリアルだ。空襲警報が鳴ったら、ただ家の横に掘っただけの防空壕に家族全員入って、布団をかぶって、耳栓をして、あとは当たりませんようにと神頼み。震えながらひたすら祈る。

轟音とともにやってくるB29の襲撃の間は生きた心地がしなかったそうだ。B29が去った後、防空壕から出るとあたり一面焼け野原。黒焦げの死体がそこらじゅうに転がっていたという。幼いころに母の目に焼き付いた光景は一生消えないだろう。

無差別攻撃は、本当に運ゲーだ。生き残る要因がなんだったか、もはや分からないけど、とにかく助かった。子どもたちは徳島に疎開させようということで、母たちは祖母、祖父と離れて兄妹4人、徳島に渡った。

その後、神戸の電気屋さんも空襲に遭い、それでも祖父、祖母とも無事で、徳島に来たそうだ。本当に運が良かったとしか言いようがない。

だが、疎開あるあるだが、疎開先の親戚宅や学校ではとにかくいじめられたそうだ。「ダイバーシティ」とか言ってる現代とは違って、よそものは徹底排除な昭和初期。

戦争ですべて燃えてしまい、着の身着のままで疎開しているので、当然恐ろしく貧乏。

白米が買えず、麦飯しか食べられない。学校のお弁当に麦飯を持って行ったら、同級生が弁当箱にツバを吐いて食べられなくされたり、徹底的にいじめられたそうだ。

米がどうしても手に入らないので、小さかったうちの母を使って、ご近所にお米を「借りに行く」。借りると言っても返すアテはないので、当然ご近所さんも嫌がるわけだが、そこは小さな子供を使って断りにくくさせ、少しでも米をいただいてくる作戦だ。インドのホームレスもこういう方法してた気がする。みんな考えることは一緒だ。

薪の調達要員が足りないので、小学校に行かずに母が兄と一緒に薪を集めに行く。一本気で腕っぷしが強く、勝ち気な母は、お母さんをラクにさせてあげようと張り切って山盛りの薪を集めていたら日暮れで真っ暗になってしまい山の中で迷子になった。

どうやって帰ろうと思案した挙句、「薪を背負ったまま転がればふもとに降りられるだろう」という雑な案を決行し、身体が傷だらけになったが生還したらしい。

4兄妹の中で一番腕っぷしが強く、勝ち気でさらに一本気。前線を好んで特攻しに行く母なので、武勇伝には事欠かない。

弟がいじめられたら、いじめっ子をやっつけに行ったり、ドブのようなところでヒルまみれになりながら泳いだり、お母さんを喜ばせようと隣の家の畑からスイカを盗んだり、親戚の家の柿の木に登って柿をいただいたりと、いろいろワイルドに生き抜いていたらしい。

なんとその柿の木のある家の息子が、将来の母の夫、つまりわたしの父というのも驚きだ。

そんなこんなで空襲を生き延び、貧乏の極みを、地べたを這いつくばりながら生き延びて、そのおかげで今がある。わたしがいる。息子がいる。

そんな青春時代が戦争と貧乏ですっぽり抜けた母は、なんとなく7歳くらいで精神年齢が止まっているようなところがある。きっとその時代に成長すべきなにかを得る機会を失ってしまったのかな、と思う。

だからわたしも育てられてきた中で、いろいろ母に思うところはあるけれど、とにかく何を置いても、いのちをつないでくれた母には感謝しかないし、そんな風に幸運にも生き延びた母の家族の後ろには、多くの犠牲者がいる。

戦争は政治家同士の権力争いだ。結局巻き込まれるのは一般市民。それを実際に体験した人から聞くと、とてもじゃないけど「戦争も仕方ないよね」とは言えない。

やめろといっても勝手に攻めてくる国もあるし、ハッキリ言ってもう迷惑でしかない。そんなに資源とか土地とか取り合いする必要あるの?もうやめて。ウンザリ。

戦争反対って、イデオロギーがどうとかじゃない。

「戦争反対」という言葉に込めている気持ちは、ただひたすら、自分の生活を、日常を、平穏に過ごせるための祈りだ。戦争はそれを壊す。

もう母のような思いをする人を出したくない。わたしだってそんな思いをしたくない。同じことを繰り返さないでほしい。

だからわたしは、断固・戦争反対なのだ。

わたしは未来の平和のために、母の体験を語り継ぐことが、わたしにできる小さなアクションだと思う。今まで母に何度も聞かされてきた話を、もっともっと書いていこうと思う。

ここに書いていくことが、わたしの#未来のためにできること だ。

神戸の空襲に遭いながらも運よく生き残った母が、貧乏に耐えて生き抜いてくれたからこそ、わたしと息子が今ここにいることに感謝した終戦記念日。正午には、息子と2人で黙とうした。

人々が争わず、お互いに協力して、よりよい社会が作れますように。そのためにわたしができることを、自分の身の回りのことからやっていくつもりだ。

今日もお読みくださりありがとうございました!



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