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何者にでもなれる時代に埋もれて生きるしかないのだろうか。

私の人生を表現するにあたって、一番似つかわしくない言葉がある。

「本気」と「努力」

太宰治さんに言わせてみれば「恥の多い生涯を送ってきました」という枕詞がとっても似合うような人生。
とはいえ人間失格の主人公である葉蔵のような壮絶さはまったく無くて、むしろそういった人生における波というものをうまく回避しながら生きてきたことについて、私は恥だと思っている。

本気の恋や、本気の喧嘩なんてしたことないし、本気になれたスポーツもなければ、親に言われてやっていた数々の習い事も、母との約束であった「小学校卒業まで続ける」という約束を果たした途端に全て辞めた。


思えば幼い頃から
その片鱗はあったような気がする。

女の子の大半が通る道である、りかちゃん人形やポポちゃん、プリキュアも好きじゃなかったし、キティーさんやミッキーさんのようなキャラクターも、特にこれと言って好きなものはなかった。

だけど兄が持っていたゲームボーイカラーや、クラスの子がこっそり学校に持ってきていたたまごっちや、携帯電話はとても魅力的に感じていた。

どれもこれも「本気で欲しい」のではなくて、みんな持ってるから欲しいという嫉妬でしかなく、
買ってもらってもすぐ飽きるのがいつものことで、母からは「あなたの誕生日プレゼントが一番悩んだわよ」といまだによく言われる。


でもそんな私でも夢中になれるものは片手の指で数える程度にはあった。

テレビのバラエティーやお笑い番組、ドラマ、そして父さんのカーステレオから流れるFM NACK5と、音楽の授業と、声楽家だったピアノの先生の歌声。

そういったエンターテイメントに対する漠然とした憧れはずっと持っていた。
テレビ業界というのは幼い子供からしたら華やかで憧れる世界。ここで歌って踊ったり、笑いを取ったりできたならどれだけ楽しいだろうと思った。

それから小学生から中学生の時にいじめを受けて、生きる意味を見失っていた頃に、テレビジョンに載っていた劇団員募集オーディションの広告を見つけて
「ここに行けば何か変わるのかもしれない」と何の気なしに勝手に履歴書を送ったことがある。

しかし一次審査を通った手紙が届いてすぐ、母にバレてしまい、「そんなところに出せるお金はないわよ」と軽くあしらわれて私の望みはあっけなく散った。

それもそのはず。
田舎に住んでいる私の家から東京までは、最寄り駅まで車で1時間、そこから電車で2時間の距離。レッスン代と交通費だけでもバカにならない。

田舎に住んでいる芋っ子中学生には、膨大なお金と天性の才能がない限り、そう簡単に叶わない夢であることを知って絶望した。

そうして私が「本気になれそうだったもの」は、クラスの人気者の〇〇ちゃんが持っているたまごっちや携帯電話の如く「ないものねだり」に成り下がってしまった。


そこから時代は移り変わり
私は今「何者にでもなれる時代」を生きている。


SNSで発信するだけで人気者になれたり、YouTubeでテレビのようにチャンネルを持って、ドラマもバラエティーも、歌もトークもなんでもありで、タレントにも、歌手にもラジオのパーソナリティーにだってなれる時代になった。

コロナ禍でご飯屋さんやアミューズメント施設が軒並み休業を余儀なくされたあたりから、ラーメン屋さんの秘伝のレシピも、ディズニーランドのチュロスも自宅で再現できるようになってしまった。


そんな「何者にでもなれる時代」だからこそ、私は子供の頃よりもさらに恥の多い人生を恨むようになった。


私は小さい頃から音楽が好きで、ラジオが好きで、コントより漫談が好きで、歌うことも話すことも大好きだ。それを発信することは、いつどこでもやりようはある。

だけどそこには、気にしたくなくても気になってしまう「数字」と「人気」というものが付きまとう。

人間は皮肉にも、常に向上心を持ち続ける生き物であって、「数字」は多ければ多いほど嬉しいし、人気があればあるほど、そこに自分の存在意義を見出す。

そしてその逆も然り。

少ければ少ないほど、
不安になり自分の存在意義を見失う。


『わたし数字なんて気にしてないわ』

『自分の好きだと思うことだから続けているの』


そんなふうに”私は無欲である”と口にする人もいるけれど、わたしはそんなのただの強がりだと思っている。誰だって無いより有る方が少し気分がいいだろう。

そんなふうに思うのは「本気」と「努力」を掻いくぐり、「無いものねだり」でどうにか生きてきた恥だらけの私の心が荒んでいるからだろうか。


数字というものは、人に優越感と劣等感を同時に植え付けるもので、ちなみに今までの私は劣等感しか植え付けられていない。

そうして諦めたことは数知れず・・・

上には上がいるし、やろうと思っていたことは、私なんかがやらなくても誰かがもうやっているし、私にあの人以上の魅力は見当たらないし、それを上回る努力の仕方も、なんなら「本気でやりたかったかどうか」すらもわからない。

そうやって「本気」を見失い「努力」を惜しんで、私の人生においての恥に、また正の字を一本足す。


私はもうわけがわからない。

私が本当にやりたいことってなんなんだ?

輝ける場所はどこにある?


私は私に問う。


『あんたは何者になりたいんだ?』


「私はただ自分のやりたいことをしたかっただけ。
でも誰にも見てもらえなかったら何者にもなれやしないよ」


『そうやってまた諦めるのか?』


「しょうがないじゃん。だって誰も見てくれなかったってことは才能がないってことでしょ?これ以上続けても意味ないよ」


『誰も見ていないんじゃない
”まだ”誰も見ていないだけだ
方法はいくらでもあるだろ?
なんでやろうとしない?なんで調べない?
誰かと比べて悲観的になって諦めるな』


『好きならその気持ちを貫け、その努力をしろ』


ここまでぼんやりと頭の中で自問自答を繰り返し、私の心の中に意外と強靭な鋼メンタルを持っている、リトル花崎がいることを知った。

(はいそこ、ダサいとか言わない)

学生時代のいじめられっ子暗黒期から20代前半までは、豆腐メンタルだったけれど、ここ最近いろんな学びを得て、高野豆腐メンタルくらいにはなったことを実感した。


つまりは、さっきの言葉に集約されてはいるけれど、自分がやりたいと思ったことに対して「芽が出ない」とか「数字が伸びない」とかそんなものは関係なく、自分を貫くことこそが、真の努力であるわけだ。


そしてそれに対する
熱意や本気は後から付いてくる。


私は幼少期から「本気」や「努力」が生まれないことを悲観的に思っていたけれど、
それは努力を回避するために何か理由をつけて、足を進めずに諦めていたからこそ、そこに行きつかなかっただけ。


まずは続けることだ

貫くことだ

めげるな

負けるな

周りにではなく自分に負けるな

勝負はそこからだ




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花崎由佳(はなさきゆか)

フリーフォトグラファーをしながら
メンタル心理カウンセラーもやってます

日々の小さなお悩み、人間関係のお悩み、
自己肯定感や自分らしさのコーチングを
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