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トスカーナのオリーブオイル

 フィレンツェで泊まったホテルは駅から近く、カジュアルな部類で、建物は小さいけれど部屋は十分な広さがあり、清潔でさっぱりしたとても心地の良いところだった。
 見るからに古い建物で細い階段をずっと上らないとならないが、その階段もクリスマスらしく飾られていた。飾りや絨毯、調度品は年季を感じるが傷んでなく、よく手入れされ大切にされているのがわかり、感じが良い。

 イタリア人の同行者とイタリアを旅行していると、だいたい受付ではホテルの人と同行者とだけでイタリア語で会話になってしまい、私の存在はクレジットカードかパスポートを出す瞬間しか認識されていないことが多い。目を合わせての挨拶すらされないこともあった。(差別ではなく、そこのサービスの基準が代表者だけでいいという方針、ということ)
 ところがこのフィレンツェのホテルは最初に私もイタリア語がわかるか、次いで英語なら二人ともわかるかを確認し、ふたりに向かって英語でホテルや町の説明をしてくれた。

 そのレセプショニストがお勧めしてくれたオステリア(=食事のできる居酒屋)は、有名な白とピンクと黒の大理石で飾られたドゥオーモ前の広場からのびる横丁に並んでいるうちの一軒で、こちらも感じの良いカジュアルな店だった。

 「フィレンツェに来たのだからフィオレンティーナを」と同行のイタリア人が言う。フィオレンティーナはフィレンツェ名物のステーキで、それが巨大なことで有名で、だいたい1㎏で提供されると聞いていた。いくら脂肪のほとんどない赤身とはいえ、体の細い日本人の私には1/4だって自信がない(しかも前菜かプリモ・ピアットも頼むのだ)。
 ヨーロッパの人はひとりで1㎏食べられるのかと同行者に尋ねると、彼は食べられる人はいるが自分も1㎏は無理だと答えた。イタリアの外食はふつう一人ずつ注文するのだが、こればかりはシェアするのだろうか、それとも肉の塊を1㎏食べられてこそ”男らしい”というような文化なのだろうか。

 このGIANNINOは500gから提供していたので、同行者はフィオレンティーナを、私はこれなら食べやすかろうと鶏肉のディアボラ風+野菜のグリルを頼んだ。
 前菜はブルスケッタにした。北のほうばかり回ってきたせいだろうか、トマトとバジルとニンニクとオリーブオイルを使ったいかにもなイタリア料理を、現地で始めて食べたように思う。同行者はプリモ・ピアットから何か選んでいたように思うがよく覚えていない。

 一皿目を下げて貰い、メインを待つ間に私はパンに手を伸ばした。コペルトといって、イタリアで外食する際にはパンが盛られた籠が必ず供され、カジュアルな店で300円くらい。ちょうど日本の居酒屋のお通しのような感じだ。お店によってはオリーブオイルも出してくれる。
 このGIANNINOもオイルを小皿でくれたのだが、オイルをつけたパンを口の中に放り込んだ瞬間の衝撃が忘れられない。

 鮮烈な、青さとやわらかい酸味とが舌のうえから鼻腔に抜けていく。樹から落ちたばかりの実をかじったらこんな感じだろうか、と思わず目を閉じて想像した。白いパンを小皿につけて、もう一口。透明な液体はかすかに緑がかっているようにも思われるが、室内の黄色っぽい照明の下なのでよくわからない。見た目は普通の油なのだ。それなのに、日本で口にしたことのあるオリーブオイルとはまったくの別ものだった。

 パンをひたすら口に放り込んでいると、私が小食なのを知っているイタリア人が食べすぎてメインが入らなくなるのでは無いかと心配してきた。我慢する、つもり、でも、もう少しだけ。ついつい手が伸びるのが止められず、精一杯の努力をもってなるべくゆっくりパンをちぎり、ゆっくり味わって噛んだ。さわやかな香りでオイルだけでごくごくと飲めそうな気さえする。

 同行者の頼んだフィオレンティーナは肉に少し野菜が添えられる程度を想像していたところ、肉と同じ量のフライドポテトが添えられて大皿からはみ出している。かなり量が多く、さすがに食べきれていなかった。
 肉はずっしりと分厚く、私の手よりも大きい。少し貰ってみると、この赤身のさっぱりしていること。表面だけ炭火でこんがり焼かれたレア、脂が少ないので臭みもなく、胃がもたれないし食べやすい。
 私の鶏肉と野菜のグリルも大変美味しかったのだが、やはり食べきれなかった。お腹いっぱいでとてもデザートは頼めなかったが、それよりももうパンが入らないことが悔しかった。私は未練たらしく最後にオリーブオイルをスプーンでひと舐めしたのだった。

 テーブルで会計を済ませて1階に下りると、入り口脇のカウンターでグラッパを出してくれた。カウンターの向かいオリーブオイルの瓶が山のように並んでいる。おそらくこの辺りで作られるのだろう。買い求めようかと思ったのだが大きい瓶しかないようで、すでに別の瓶詰めなどでバックパックが重かった私は諦めた。
 グラッパは油も肉もニンニクも洗い流して咽を灼く。かっと熱くなったまま外に出ると、一月の夜の冷気が心地よかった。

◆◆◆

 家で料理をしながら時々このオステリアで口にしたオリーブオイルのことを思い出す。
 日本でトスカーナ産のエクストラヴァージンを探してみたものの、やはり程遠い。あのオリーブオイルの値段を知らないが、日本で同じものだったら倍にはなるだろうし、あまり高級なものでは手が出せない。
 結局、家には大瓶で500円以下の炒めもの揚げもの用と、香りづけ用の小瓶を置いている。どうせあれは買えないのだから、と開き直りつつ、それでも手ごろな範囲でなるべく気に入るものがないかと、小瓶のほうは無くなるたびに新しいものを試すことにしている。旅先で「これは!」と思ったものは何が何でも買わないといけないな、と噛みしめながら。

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