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自粛と委縮

いつになく、ストレスを抱え込んでいるらしいということに、自分で気づくほどになっている。それは、私だけではなく、家族も、隣の人も、街中の、日本中の世界中の人がそうなのかもしれない。新型コロナウィルスが一気に広がり、その猛威に世界中が震えあがり、テレビやパソコン画面の中の映像で、続々と病院に運ばれる患者の様子、窮状を訴える医療従事者、どこかの国の路上でのたうち回って倒れる人、積みあがる棺、そして、自分のところも明日にはそのような状況になるのでは、という恐怖に怯えながらも、Stay Homeのベランダで歌ったり、Zoomを使って合奏し励まし合う姿にくぎ付けになった。

罰則を伴う私権制限としてロックダウンが実施された国もあれば、「不要不急の外出は自粛してください」というスタイルの緊急事態宣言に留めた国もあった。自治体も、なけなしの財源を振り絞りながら、おらが村は守るぞ!と首長たちが奮闘した。不謹慎を承知で言うならば、一種のコンペティションの様相を呈しているし、その市民たちの間にもなんとなく団結感が生まれ、良い意味での閉鎖性を伴う、地域ごとの独立性も発揮して、おらが都道府県、おらが家族を守ろうとしている。

地球上のどこにいて、どんな職業や社会的立場かによって、受ける影響は大きく異なり、現時点までにそれぞれの人が置かれた状況や、取ってきた対応は様々だっただろう。しかし、当初の、新型コロナウィルスによる感染症そのものに対する恐怖よりも、徐々に、「私権制限と限定的な補償」「補償の無い自粛要請」という、言わば、感染症流行に対する抗生物質を効かせようとするのと並行して副作用が効いてきて、人々は頭が朦朧として思考が鈍り、目先が暗くなり、歩行速度も遅くなって、終には座り込んでしまうような、『萎縮』の状態にはまり込んで来ているように感じるのは私だけだろうか。

「経済を回す」ことばかり考えて、第二波(らしきもの)を起こしてしまうことに繋がっているのはけしからん、という論調が強まっているのを感じるが、冷静に、常識的に考えれば、誰も「経済を回す」ことだけ考えているわけはなく、未知であったウィルスについての情報量の増加を通じて知見を深め、医学的対策に最大の力を注ぎつつも、日常生活を続けられる術、すなわち社会的対策も見つけて行かねばならないということはわかるはずだ。

うちのお父さんのお店にお客さんが来なくなった⇒家計が苦しくなった⇒私は大学進学を断念・中学受験を控えた弟の学校は休校が明けてもカリキュラムが進まない⇒今年の家族旅行はキャンセル・靴を買い替えるのは止めておこう・外食なんてもってのほか⇒観光客減少・消費減少・レストランの客足減少⇒その経営者の家計が苦しくなり⇒景気後退⇒⇒⇒嗚呼

こうなってもいいです、と言うのなら、経済を止めてでも感染症の拡大を止めることを優先すべきだ、と言い切れる。しかし、こうなって、ヘロヘロになってしまった経済状態の国に、第X波の感染が広がった場合に、医療体制が持ち堪える力、経済的補償をする力が残っているだろうか。。。と思うのだ。守るべきは、命。優先すべきは安全。そのうえで、日常をどうやって取り戻し、その時その状況下で出来得る限り伸び伸びと動ける社会にしていくための方策を考え、取り組んで行かねばならないのだと思う。

個々人は、自分や大切な人たちの命、安全を守るための行動自粛の方法やレベルは自ら柔軟に考えて行動する。そのためには、萎縮してしまってはダメだ。




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