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機会は平等じゃないし、結果も平等じゃない。

出産/復職を挟んで、会社でのキャリア(端的には昇格スピード)に急ブレーキがかかってしまった理由について、前回のnoteで以下のように書きました。

現時点での私の解釈は、出産/復職とそれに伴って生まれたいくつかの変化により、会社における、私の人材としてのポジショニング(ここで言うポジショニングはマーケティング用語のそれです)が変わった、というものです。

その背景にある3つの構造的/文化的要因について、人事部での勤務経験から考察していきます。今回はそのひとつめ。

そもそも機会は平等ではない

業績を評価されたり昇格したりする「機会」というのはどこにあるのでしょうか。

外形的には、多くの企業で年に1回ないし2回行われる業績評価の場と、昇格試験の場がそれに当たります。でももちろん、業績評価も昇格も、その1回1回の選考プロセスの中だけで決まるわけではありません。評価であれば、日々の業務の積み重ねや上司/チームとのコミュニケーションも大きく影響しますし、昇格試験も、面接の出来/不出来だけではなく、その社員が社内でどのようなキャリアを歩みどのような成果を上げてきたか、管理職であればチームを率いるのに必要な資質を持っていそうかどうか、職場との関係性はどうかなど、会社は社員を多面的に見ています。

これは、大学の入学試験や就職時の入社試験とは前提が大きく異なります。入学試験や入社試験は通常、採点者や面接官はその人のことを知らない状態で評価しますが、社内の業績評価や昇格では日頃の人となりを知られた状態での評価や選考になるわけです。

その意味では、企業における業績評価や昇格選考の場では、そもそも機会としての平等や公平性というものは、はなから担保されていないのです。入学試験や入社試験における筆記試験とは異なり、日々の業務ではひとりひとりが違う仕事をしています。おまけに日系企業の多くはいわゆる"メンバーシップ型"(人事用語では職能型と言います)の雇用や人事制度を運用していて、その仕組みの最も大きな特徴は職務の無限定性です。社員は雇用の安定を約束される(近頃は大企業だって終身での雇用を約束できないのですが)代わりに、会社に言われた場所で言われた仕事をする、という条件で入社しています。そうなれば当然、自分の得意分野に合った業務アサインをされることもあれば、合わない仕事を渡される場合もあります。

さらには、評価者となる上司や、職場内の管理職たちとの相性もあります。もとより人が人を評価するプロセスにおいて、評価者の持つバイアスを完全に取り除くのは土台無理な話ですから、どうしても評価者の価値観や好みといった主観的な要素に程度の差こそあれ影響を受けます。さらに、職務が限定されない日本的な雇用慣行の元では、日々の業務アサインは上司の裁量の下で行われます。そうなればその日々の業務アサインによく応えてくれる、何にでも如才なく対応できる人が上司や周囲の管理職の評価を得やすくなることは想像に難くありません。

機会の平等は結果の平等を生まない

ここまで、企業内での評価や昇格においてそもそも機会は平等ではないという話をしてきましたが、仮に平等な機会を社員に与えることができたとしても、残念ながらそれが結果の平等に繋がらない場合が多々あります。

営業職のように、最も目標を定量化しやすい仕事で考えてみるとわかりやすいと思います。あるチームでは、チーム全体の年間の売り上げ目標をメンバー全員に均等な金額で割り振っているとします。Aさんはフルタイムで働いており、残業もできますが、Bさんは実母の介護を抱えており、フルタイム勤務ではあるものの残業はできません。Cさんには保育園に通うこどもがおり、迎えに行くために短時間勤務をしています。

この状況で年間の目標金額が同じであることは表面上、機会の平等を意味しますが、ではこの3人は1年後の業績評価で、平等な結果、すなわち実力に応じた評価結果が得られるでしょうか?おそらくそうならないことは容易に想像できます。

ここからが問題です。では、この3人にどんな目標を設定すれば、実力に応じた結果が出るのでしょうか。

3人の労働時間を考慮して、目標金額を割り振るのか?それとも3人のこれまでの単位時間あたりの生産性を考慮するのか?はたまた、アサインする案件の難易度を考慮するのか?
それぞれの場合について、3人が機会均等になるように割り振るのが”平等”なのか、それともより良いコンディションの人により高い目標を課すのが”結果の平等”に繋がるのか?

要するに、唯一無二の正解は存在しないのです。となると、ここには会社の方針とか文化といったものが(意図的かどうかはともかく)色濃く反映される部分になります。

そして、会社としては社員間の平等や公平感なんかよりも、会社全体の業績が上がることのほうが本来よっぽど重要ですから、究極的には能力の高い社員が、生産性の落ちない範囲でなるべくたくさん働いてくれるのが一番良いのです。

では”能力の高い社員”とは誰なのか?

端的には業績の高い社員、ということになります。ですが、先に述べたように、どうすれば業績を平等に、客観的に評価できるのかについては正解がない。堂々巡りです。
営業職のように、一見個々人の目標と成果が明確に思える業務内容でもそうなのですから、企画、開発、オペレーション、はたまたコーポレート部門、あるいは部門横断プロジェクトなどに従事する社員をどう評価するかは一層悩ましくなります。

この堂々巡りを止めるためには「うちの会社はこういう社員を求める。こういう指標で業績を評価し、こういう行動を推奨する!」と経営者がはっきり打ち出す必要があるのですが、こういうことを言い切れる経営者は、残念ながら伝統的な日本企業には極めて少ないと感じます。

一般に言われていることも踏まえて想像するに、伝統的な日本企業では、社長は若くても50代から60代。かつ、いわゆる「生え抜き」の社員が管理職になり、役員になり、社長に就任するケースが多いので、会社をひとつしか知りません。

高度成長期に生まれ、働き盛りの時期にバブル経済を経験した世代にとって、仕事とは、ミッションだ、ビジョンだと高尚なことを考えるよりも、汗を流して働いた分だけ報われる、シンプルなものとしてインプットされてきたのだと思います。もちろん経営者になるほどの人ですから、当時と今が全く違うことを前提に、今の事業環境を様々な観点から見極めようとし、その中で何をどう変えていくべきか、あれこれ試行錯誤している。でも結局のところ、それらは本人がキャリアの中で教育を受けてこなかった部分なので、手探りです。こんなことを書くとあちこちから怒られるかもしれませんが、要するに我流なのです。

そしてまた、少なからぬ会社が社長を数年毎に交代させ、社長を退いた人は会長や相談役といった名誉職として、会社に引き続き残る。そんな中で新たに社長職に就いた人は、名目上は会社の経営に関する全権を握っているにも関わらず、先代のやってきたことをあからさまに否定するようなことは言いたくない、ドラスティックなことをしづらいという心理も働きます。

そういうわけで典型的な日本企業の経営者は、大きなビジョンを打ち出して会社をリードするという経営スタイルがあまり得意でないのだと思います。

話がだいぶ大きくなりましたが、会社が社員に目標を課したり評価するということは、突き詰めていくと非常に高度な経営判断を要する話なのです。

ところがその、高度な経営判断を要する内容を実際に考えて形にしているのが、私の所属していた部門でした。私自身、社内の人事制度のうちのひとつを担当し、その制度のあるべき姿、問題点、具体的な制度設計といったことを全て考える仕事をしていたわけです。

しかも私は一介の担当者で、チームでは一番の下っ端でしたから、業務をアサインされているだけであって、決定権はありません。先輩、上司、そのまた上司、となりの部門の担当者、管理職・・・といろんな人の意見を聞きながら案を作り、最後は人事部長に首を縦に振ってもらい、社長に説明してもらえる内容にまで整えなければいけないわけです。

前述したように、経営者ですら答えを持っていないような内容ですから、いろんな人に意見を聞けば聞くほど話は発散し、集約が難しくなるタイプの仕事です。ですが、伝統的な日本企業はいろんな人の意見を反映することを重視します。私の当時の上司もそうでした。それを最も立場の低い社員に旗を振らせているのですから、結果としてものすごく時間がかかります。生産性なんてあったもんじゃありません。

それを、子育てによる時間の制約がある中でやっていたのです。しかも一番下っ端でしたから、日々の細々とした事務処理や、社内からの問い合わせも全部自分で対応しながら、同時にこの高度にコンセプチュアルな仕事を進める必要がありました。残業をせずに。

出産後に復職して足掛け3年この仕事に取り組みましたが、ついぞ形にすることができないまま、私は人事部内で別の部門に移り、違う業務をアサインされることになりました。

違う仕事なら、3年あれば目に見える形にできたかもしれません。でも、それは言っても意味がないことです。そもそも機会は平等じゃないのですから。
ちなみに、その仕事は私が別の人に引き継いだ後も、まだ形になっていません。

以上が「機会も結果も平等じゃない話」でした。
次回は、職能の曖昧さについて書いてみます。

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