自己開示を、強要しない。
仕事柄、自分の特性のことや内面の話をすることが多い。
講演やイベントでもそういう話をしてほしい、と頼まれることもある。
だからか、多分、他の人よりかは自分の話を他者にすることに抵抗がない。
自分はどんなことを考えていて、どんな感情が湧いていて、物事や出来事に対してどう思っているのか。
特に私が3年ほど前からやっているジブン研究(https://jibunkenkyu.com/)というプログラムは、そういった話を参加者と一緒に対話しながら深めていく場所。
これから私が設立しようとしている会社の事業も、さとのば大学(https://www.satomana-satonova.com/)でやっている授業も、そういった自分の内面や特性と向き合うためのプログラムを設計して作っている。
もちろんいつどんな時も誰に対しても自己開示ができるかと言われたらそうではないし、できない時もある。けれど、そもそも前提として私はおそらく、人に対しての一般的信頼が高いと自覚している。だからこそ、ある一定の自己開示に対しての抵抗は少ない。
一方で最近は、その自己開示を強要する雰囲気を自分で作っていないか、と自問するようにしている。
人は、自分が良いと思っていること、特に大切にしていることを他者に「わかってほしい」と思う。知らず知らずのうちに、自分が良いと思っているまなざしを他者に向けていることがある。
「それって、どうしてそう思うの?」
私がよく自分に対しても他者に対しても投げかける言葉だ。
考えることが好きな私は、よく自分にも他人にも問うてしまう。
だけど、理由がないことなんてこの世の中にいくらでもある。
ミルクティーが大好きな私だけど、なんで好きなの?って言われても、うーん、なんかわかんないけど好きなんだよなあって思う。
なのに、それをずっと聞かれれば相手は苦痛に思うかもしれない。
「なんでって言われてもなあ…..」
それほど、「Why」という言葉には力があるんだと思う。人に、考えさせる力を持っている。考えるという行為は、脳に負荷をかける行為だ。
つまり、考えたくない時に考えさせるのは、とても苦しさを伴わせるものでもある。
もちろん、時と場合によってはめちゃくちゃ負荷をかける必要がある時もある。私の場合、会社を設立するにあたって、なんで会社を創りたいと思ったのかとか、どういうことを大切にしていきたいのかとか、どんな事業をやっていきたいのかとか。そういう時はめちゃくちゃ負荷をかける。考えても考えてももう出ない、頭が破裂しそう!というところまで負荷をかける。それは自分がそうしたいからそれで良い。
一方で、他者とのコミュニケーションに置き換えてそれを当てはめてしまうと、とても危険。
相手が深く潜ることを望んでいない時に、「どうしてそう思うの?」「その時、どんなことを思ったの?」「どうしていきたいの?」という問いはどんどん相手を追い詰めてしまう。時には、「責められている」と感じさせてしまうかもしれない。
例え、自分にとってそのコミュニケーションが、相手を理解する上で必要で知りたいと思ったとしても、相手がそれを望んでいないのであれば、強要する雰囲気を作らないこと。
劇作家でもあり演出家の鴻上尚史さんのとある記事で、本当にその通りだなと思った言葉があった。
自分が話したいと思ったことは、相手が聴いてくれそうであれば話しても良い。けれど、相手が話したくなさそうだったり、話す必要がないと思っていることに関しては、それ以上踏み込まないこと、口を出さないこと。
それほど、自己開示はデリケートで、心理的な負担を伴うものでもある。
自分の当たり前は、相手にとっての当たり前ではないことを、人は容易に忘れてしまう。
私自身、思い返せば、人とのコミュニケーションにおいて、反省することがたくさんあるし、今でも気をつけないと、と思うことがたくさんある。
たくさんあったからこそ、自戒を込めて。
踏み込むことだけが、対話やコミュニケーションではない。
相手が話したくない、話せないのであれば、ただただ「待つ」こと。
待ったとして出てこなくても、それで良しとした状態で共にいること。
それも一つ、相手を大切にするコミュニケーションなんだと思う。
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