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<閑話休題>無心 とは

 長く海外生活をした後、ようやく日本に戻ってからの一番の楽しみは、なんといってもたっぷりのお湯を張った湯船に肩まで浸かることである。もちろん、これが温泉の露天風呂なら最高だが、しょっちゅう温泉旅行するわけにはいかない上に、お金を払って銭湯やスパに行くのも大変だ。

 だから自宅の湯船が、毎日確実に期待に応えてくれる極上の楽しみとなる。しかし、湯船に浸かって、「はあ~」と思わず声を出していると、静かに水面を漂うものが目に入ってくる。髪の毛だ。これが長い場合は、指ですくって湯船の外に捨て、妻に小言を言うと「あなたのじゃないわねえ・・・」と陰に禿げた私に言及する。

 一方、これが短いものだと、私の髭である可能性が高い。なぜなら、顎髭が湯船に浸かっているからだ。そして、これをすくおうとしても短いためにうまくできない。まず、手を水面から出した瞬間に波が発生して、髭が目の間から消えてしまうのだ。これが長い髪なら、多少の波とは無関係に停滞しているので、それをすくうのは簡単だが、短い場合はかなりむずかしい。

 「浮力の原理」を「ユーレイカ(見つけた)」と叫んだアルキメデスではないが、これはいわゆる「根源的な命題」と同じではないかと気づいた。つまり、迫ろうとするとそれは逃げ、無視しようとするとそれは近くに寄ってくる。この「根源的命題」とひとまとめにして私が表現しているものがなにかと言えば、人が生きている中で必ず心に浮かんでくる問いのことだ。

 それを別の言葉で言えば、「悟り」、「存在」、「神」、「仏」、「言葉」、「心」、「世界とは何か」、「私とは何か」、「私が生まれた目的は何か」、「人とは何か」といったものだ。そして、これを「神」や「仏」に安易に問うても、絶対に答えてくれないものだ。なぜなら、湯船の髭がすくえないのと同様に、追えば逃げ、去れば寄ってくる問いだからだ。

 また何よりも、「神」や「仏」に問うことで、たやすく答えをもらえると期待すること自体に無理がある。では、なにをすればまたはどうやって問えば、答えをもらえるのかと言えば、それは金銭でも物資でもないし、また修行や善幸の積み重ねでもない。もちろん、問いの形を変えることなどではまったくない。答えを得るためには、執拗に自らに問い続けることによるしかないのだ。

 最初にこうしたイメージが脳裏に浮かんだのは、中学3年のときだったから、それから私は50年ほどこの問いを自らに向け続けてきたことになる。しかし考え続けることは、喜びよりも苦痛を感じる時が多かった。また、もっと楽なものへ逃避したこともあった。金銭を得るための仕事をするという、考えることを脇に置くための格好の言い訳もあった。そうしていながらもやはり、長く考えを止め続けることはできなかった。それは逃げおおせたと思った頃に、ふと心の中に浮かんできて、「私のことはお忘れですか?」というように、私の目の前に出てくるのだった。そうして私は、結局長い時をかけて考えまた苦しんできたが、最近ある言葉に辿り着いた。「無心」という禅の言葉だった。これが答ではないかと感じた。

 この「無心」という言葉の意味は、そのまま文字通りに「心を無くすこと」と理解されている。一般的な使い方としては、例えばゴルフのパットをするときに、スコアなどはまったく関係なく「無心になって」プレーしたというのがある(そして、良い結果に結びついている場合が多い)。他には、あまりにも空腹だったので、そこにある食べ物を「無心になって」食べてしまった、と言う例もある。別の言葉を探せば、「虚心坦懐」がこうした「無心」の使用例に近いと思う。つまり、「心(頭)を虚ろ(空っぽ)にして、懐(ふところ=心の中)を坦ら(平、先入観のない状態)にすること」という意味だからだ。

 ところが、私の捉えたところの「無心」は、「虚心坦懐」の境地とはつながらない。また、そのような「心の有様」でもない。「無心」に漢文のレ点を付ければ、「心を無くす」と読めるが、そうではなくて、「無い心」と私は読んでいるからだ。

 では「無い心」とは何か。それは、「無」という「心」がそこにあることだ。そして「無」とはなにかと言えば、「この全宇宙のあらゆるものをまとめたもの」である。次に「心」とは何かと言えば、それは人の持つ個々の心ではなく、「全宇宙の心」である。それを別の言葉に言い換えれば、「自然」・「世界」・「存在」となるだろう。

 だから「無心」を、私が別の言葉で言い換えれば、「自然の姿」、「自然であること」となる。しかし、ここで使用する「自然」とは、世界を取り巻く物質(海・山等)のことではない。漢字の通りに読み取れば「自(おのず)から」「然(しかり)」である。つまり「そのままで良い」、「ただそこにあるだけ」、「じねん」ということである。

 この「無心」という答えを得た後、私は全てを受け入れられるようになったのを感じている。出された食べ物は、なんでもありがたくいただく。雨の日は雨を楽しみ、晴れの日は日光と空と雲を楽しむ。花が咲けば美しいと感じ、落葉を見れば命の鼓動を聞き取る。私は生かされている、そこにともに生きている、ただそれだけである。

 このことが身体に染みわたるための時間は要らなかった。それを無意識に感じれば、それで十分だった。そしてその瞬間、私の頭の中の「根源的な命題」は消えていた。これでようやく、「いつでも自然に還れる」と安心したのだった。

十牛図(禅)


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