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<書評>「Seven Pillars of Wisdom(知恵の七柱)」

(掲載用)知恵の七柱

1935年、英国で初版発行。トーマス・エドワード・ローレンス著。
T・E・ローレンスの有名な、第一次世界大戦のオスマントルコに対するアラブ民族の反乱を支援した記録であり、デイヴィット・リーン監督の映画「アラビアのローレンス」の原作ともなった歴史上有名なこの本を、やっと読み終えた。

そもそも本書は、ヨルダンに住み始めた頃に、モールにある書店で思わず購入し、ヨルダンにいる間中に読みきろうと決心したものだった。だが、さすがにパブリックスクールからオックスフォードを卒業した俊英で、かつ19世紀末の貴族及び中産階級の素養を身に着けている教養人の英語は、私のような初心者には難しかった。

そうした中で、全121章、約650ページにわたる本書を、難解な英語表現は読み飛ばしつつ、週末の2日で2章ずつを読み重ねていくことを続けた。そして、最後の2か月は、終わりが見えてきたというカンフル剤と、ローレンスの英語表現にさすがに慣れてきたということも重なって、1日で2~3章を読めるようにスピードが上がった。その結果、ヨルダンを離れるまで残り約50日というところで、やっと完読できた。この歩みの遅さは、どこか砂漠の移動を想像させる。

読了して最初に思ったのは、この本が、19世紀の大英帝国の雰囲気をよく残していることが、その高貴な文章表現から滲み出てくることだ。そして、次に感じたことは、私は優れた文学作品と映画芸術は、最初と最後にその神髄が凝縮されていると考えているのだが、それが良く表現されていることだ。

最初に、映画について書くことを許されたい。
映画「アラビアのローレンス」の冒頭では、アラビアの砂漠の映像を予想する観客を裏切るべく、20世紀初頭の英国田舎町の風景が映る。次にその時代に現れた最新式のオートバイで疾走するローレンス(と思われる)が映し出される。続いて、彼の不幸な事故死とウェストミンスター寺院での盛大な葬儀、20世紀の英雄と絶賛する評価と、稀代の詐欺師という誹謗とが混交して紹介される。

この最初にローレンスの死と彼に対する賛否両論の評価が紹介された後、漸くアラビアのシーンに切り替わる。有名なモーリス・ベジャールの音楽とともにスクリーンに現れるのは、リーン監督得意のロングショットによる、広大な砂漠の風景だ。そこでは、主人公ローレンスはロングショットの点景でしかなく、そうして主役は「砂漠」だというメッセージを、一切の台詞や説明もなく、ただ映像だけで理解させてくれる。優れた映画とは、このように常に余計な台詞がない。映画は何よりも映像で表現するものだからだ。

そして、映画のラストシーンでは、アラブの反乱が終わって英国に帰還するローレンスの、いつものアラブ服とは違う英国軍人の軍服姿が映る。ロールスロイスに乗る高級将校となったローレンスとすれ違うのは、軍用バイクで疾走する別の大英帝国軍人の姿だ。そしてその姿は、映画の冒頭で出てくるローレンス自身の姿に重なる。こうして、冒頭のシーンと最後のシーンが重なることによって、まさに、時間と映像が円環的かつ無限に循環していることを実感する。

では、文学作品ではどうだろうか。「知恵の七柱」の冒頭には、こう書かれている。
Some of the evil of my tale may have been inherent in our circumstance. For years we lived anyhow with one another in the naked desert, under the indifferent heaven.
この環境の中で、何か変なものが自分たちの後ろにいる感覚が習慣化している。数年にわたり、我々は何もない砂漠というだけの中に暮らして、まったく異なる空の下にいる。

そして、最後の文章は、こう書かれて終わる。
When Feisal had gone, I made to Allenby the last (and also I think the first) request I ever made him for myself---leave to go away. For a while he would not have it ; but I reasoned, reminding him of his year---old promise, and pointing out how much easier the New Law would be if my spur were absent from the people. In the end he agreed; and them at once I knew how much I was sorry.
ファイザル(注:アラブ全体の盟主、初代ヨルダン国王の父)が去った後、アレンビー将軍(注:第一次大戦のアラブ戦線を担当した英国陸軍大将、ユダヤ人)に最後の(そして多分、初めてだと思うが)ずっと遠慮していた個人的なお願いをした。それは、私がここから去りたいということだった。アレンビー将軍は、しばらくの間は回答しなかった。しかし、私がそう述べることには理由があった上に、またアレンビー将軍と一緒にいたときにずっと話していたことでもあった。この昔の約束は、もし私がここの人たちから離れるのであれば、新しいアラブを支配するルールがよりやりやすくなるということだった。最後にアレンビー将軍は、この申し出を理解してくれた。そしてその瞬間、私は自分がとても申し訳ないことをしていることに気づいていた。

文学作品では、冒頭の「何もない砂漠(アラビア)」と「大きな不安感」いうイメージに対し、最後の文章では「アラビアとの決別」と「自分の居場所がない不安感」という、やはり似たイメージが対峙しているように思う。結局、ローレンスは、アラビアに行ったときの不安感が解消されずに、さらに英国に続いてアラビアでも居場所を無くして、虚しく去ることになったようだ。

ところで、実際にローレンスが第一次大戦で、アラビア半島から、パレスティナ、ヨルダン、シリアをまたがって活躍していたのは1917~18年のわずか2年間だけだ。その間に、海側にしか大砲を向けていなかったアカバ湾のトルコ軍に対して、ローレンスのアラブ軍は「絶対に攻めてこないであろう」砂漠しかない陸側から攻撃して、一瞬にして占領したエピソードが有名になっている。これはそのまま、第二次世界大戦で日本軍がシンガポールを攻略する前例となった。映画の中でも、また文学作品でも、アカバ攻略は観るものや読むものを興奮させてくれるハイライトだ。

第2次世界大戦のシンガポール駐留英国軍は、先達であるローレンスの戦略を忘れたのか、マレー半島のジャングルしかないシンガポールの陸側から日本軍は絶対に攻めてこないと思い込んでいて、海側だけに兵力を集中したため、山下将軍に短期間で占領されている。またこの時、「ハリマオ」と呼ばれた熊本県出身の谷豊というマレーシアギャング団のリーダーが、マレーシア在住の大陸中国から支援された中国人に妹を殺害された恨みを晴らすべく、日本軍が進軍する手引きをしたことが良く知られている。いわゆる「ハリマオ伝説」だ。

話が逸れてしまった。ローレンスは、この最初の表現及び最後の表現でわかるように、戦場という非日常の世界を濃密に経験してしまった英雄だった。そして、いったんそうした世界にどっぷりと浸かってしまったからには、ローレンスは日常の生活には戻れなくなっていたと思う。その結果ローレンスが最後に選択したものが、最新鋭のオートバイによる疾駆であり、(不慮の事故死とされているが、実際は)自殺に近い疾走ではなかったかと思っている。

そういう観点では、シンガポール攻略直前に病死した「ハリマオ」谷豊も同じ存在だったのではないか。彼も、日常世界では生きられず、ギャング団や戦争という非日常世界でしか生きられなかったのだ。だから、シンガポール陥落という一大ドラマのラストシーンの前に谷豊が病死することは、本人にとっては半ば必然だったのだろう。

私は、幸いに本書をヨルダンで読むことによって、ヨルダンとローレンスに関して相当に理解を深めることができたように感じている。ヨルダンの地名が何度も出てくるたびに、頭の中に具体的なイメージが湧くのは、読書して楽しい瞬間だった。そして、本書を読了することが、そのまま私の(戦争ではないが、日本の生活と比較すれば、非日常世界に近い)ヨルダン生活の終わりを象徴したようになった。もちろん、私は相変わらず日常世界で堅実に生きている。幸いに、非日常世界に入り込むのは、映画や文学作品を味わうときだけに限定できているようだ。

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